境遇をどう考える (下)


                     スイス中部の町トゥーンは木彫りの町でもあるとか。
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                                              境遇をどう考える (下)
                                              フィリピ4章10-14節
   
  
                                 (4)
  私が今お話しようとしていることは、パウロが「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と書き、「私を強めてくださる方のお陰で、すべてが可能です」と語ったことです。

  彼は「私を強めてくださる方」に目を向けているのです。イエスの姿に目を向けて生きるなら、あらゆる場合に対処する「秘訣」が授かると語るのです。

  私たちの教会で開かれているテゼの集いに来ている青年は、2月にフィリピンで開かれた大きな大会に50人の青年たちと参加しました。

  彼女が泊まった家庭は、マニラ辺りで一番貧しい地区にある家で、子ども13人の家族。中に興行ビザで日本に出稼ぎに来ていた女性もいたそうです。近所には、日本人男性との間に生まれた何人かの子どももいて、日本人の彼女を見て複雑な思いを持つご近所もあったようです。

  そんな中で、「決して豊かではない人々が、持っている僅かなものを分かち合って、もてなして下さる時、福音とはこうして人をもてなすことなのだなと気づかされ」ました、と書いて送ってくれました。

  ブラザー・ロジェさんが語るように、「ほんの僅かなものを分かち合う。すると神が私たちの心を満たして下さる」というのは本当なのです。「キリストに従って歩むとき、私たちは人と分かち合う生活、心の開かれた大いなる素朴な生活へと招かれる」のです。

  先ほど「吾、唯足るを知る」ということを申しました。パウロが語るのは、足るを知って、閉鎖的に自分の城を固めていく生活ではありません。自分を強めて下さる方によって足ることを知るがゆえに、他者との分かち合いへと開かれていく生活です。

  ご馳走はなくていい。温かい歓迎の心です。キリストによって足ることを知る時、そういう素朴なもてなしへと招かれます。

  初代教会時代に教会はありませんでした。家庭を開放して開かれる「家の教会」があっただけです。そして、思い切って家庭が開放され、素朴なもてなしの家庭になる時、不思議ですがその家庭に福音の恵みが豊かに満ちあふれたのです。もてなしはお茶だけでいいのです。お茶だけ出しとけばいいというのでなく、お茶だけなんだが、もてなしの心がいっぱい開いて心から温かく歓迎している。それでいいのです。恐らくこのフィリピンの貧しい家庭にも、福音の豊かな何かが残ったでしょう。

  私たちは、「ない」ことに目を向けていると、「ない」「ない」と非常に消極的になります。だが、「ある」ことに目を向けると別の可能性が生まれます。復活のキリストは、死人の中から甦られた方です。弟子たちは墓に目を向け、「イエスがいない」ことに目を向けて絶望しました。だが神は墓を破り、イエスを復活させられたのです。キリスト教はこの復活を信じる信仰です。神による新しい道が開かれていくことに目を向ける信仰です。

  境遇に目を向けて諦め、沈み込む信仰ではありません。

                                 (5)
  ある劇場でパントマイムが演じられたそうです。その無言劇で、男が3方壁に囲まれた部屋の中にいて、それぞれの壁にドアがあって、それを開けようとしてもがいています。だが、どんなに押しても引いても開きません。最後に足で蹴ったり、体当たりしてドアを開けようとしますがびくともしません。大変滑稽なパントマイムだったそうです。(H.ナウエン)

  というのは、彼は鍵のかかった3つのドアに気をとられて、それを開けるのに一生懸命で、自分の後ろに壁がない事に気づかないのです。もし後ろを振り返れば、難なく出て行くことができたのです。パントマイムはそんなおかしい人間の姿を演じていたのです。

  私たちは何が何でも、鍵のかかったドアから出ようとしてもがき、思い煩っていないでしょうか。しかし神は別の道を用意していて下さることが多くあります。万人が行く道でなく、別の道を行くことの方がいいかも知れない。ラッシュ時の電車は混雑しています。しかし、反対側の電車はがら空きです。

  「私たちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。いつもイエスの死を身にまとっています。イエスの命がこの体に現われるために」とは、この事ではないでしょうか。

  先ほどの青年が書いて来たフィリピンの人たちのことを読みながら、貧しい人たちほど何もない中で、何かが「ある」ようにして下さる復活のキリスト。「ない」、「ない」という考えから自由にして、別の生き方を示して下さる復活のキリストを知っているのでないかと思いました。実際、多くの人が経験することですが、フィリピンとか、インドネシアなど、日本から出て貧しい国に行くと、旗を立てての名所ツアーでは分かりませんが、田舎でホームステイなどしますと、そこの人々の方が活き活きと元気に生きています。

                                 (6)
  境遇をどう考えるのでしょうか。運命と考えるのでしょうか。パウロは満足することを習い覚えたといいます。これは運命と考えて諦めることでしょうか。

  しかし、パウロは境遇の中に神が働いて下さっていることを知っています。神がおられるから、その中でもあわてません。人と比較して自分を責めたり、人に責任を負わせたりしません。そうではなく、神はいかなる場合にも処する秘訣を授けてくださることを知って、神に憩うのです。

  パウロがあのような驚くべき伝道旅行を繰り返しできたのは、この神にある憩い、神への信頼と神による平和があったからです。私たちの人生の旅路を、この神への信頼と平和をもって進んで行きたいと思います。

         (完)
                                 2010年3月14日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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