境遇をどう考える (上)


             トゥーンの教会からの帰りに屋根のある珍しい階段を下りて旧市街に出ました。
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                                              境遇をどう考える (上)
                                              フィリピ4章10-14節


                                 (序)
  私たちは境遇をどう考えればいいのでしょう。自分の責任による境遇もありますが、誰かの責任、あるいは偶然そういう境遇に置かれる場合もあります。

  経済的な境遇もありますし、生まれつき能力の違いという境遇の差もあります。身体的なハンデや精神的なハンデのあるなしでの差もあるでしょう。兄弟によっても差があります。また閉鎖的な家庭で育った場合と開放的な家庭、あるいは悲観的な家族の中で育った方と楽天的な家族の中で育った人との境遇の差もあるかも知れません。また夫との関係や嫁姑との関係で苦労する人たち、むろん苦労させている境遇もあるでしょう。

  皇太子のお子さんの愛子ちゃんは裕福なセレブの家庭に生まれながら衆人環視に似た中で育たなければならず、今後それがこの子の重荷になるかも知れません。そうでなければ良いがと思います。

  先日はAさんと、ホームレス支援をしている市川ガンバの会の副田さんという方のお話を聞きました。最近は30代のホームレスの人が一番多いそうです。また障害者が4分の1を占めているようです。この日本で、今なお戸籍がない10代の青年たちがいるのだそうです。帰る場所のない、その人たちの境遇を考えると暗い思いになりますが、副田さんたちは人権を守りながら、人権だけでなくその人たちとの信頼関係を築く取り組みをしておられるそうで、大変考えさせられました。

  色んな境遇がありますが、根本はそれをどう負うか、その負い方が課題と言っていいでしょう。

                                 (1)
  さて、今日の所でパウロは、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と書いています。

  境遇を比較すると嫌になってしまいます。夫婦でもそういう所があります。今だから言えますが、若い時は妻の家庭との境遇を比較して劣等感を抱いたこともありました。比較するのでなく、こんな素晴らしい女性と出会ったことを喜べばいいものを、今日は特別張り込んで置きますが、比較し、競争したのは自分の弱さのせいだったと思います。時々、夫婦が競って張り合っている家庭がありますが、それは私の若い頃の醜い罪の姿でもあると思います。

  比較をするのは、潜在的に自分の境遇を責めているからでもあるでしょう。境遇を責めるのが強いと、同時に責任転嫁も強くなるように思います。

  それに対して、パウロが、「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と書き、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と頼もしく語っています。これはもう実に頼もしい言葉です。貧しさも、豊かさも、順境も、逆境も、それは主が私に必要な境遇として、そこにお置き下さったと信じ、それに満足したからでしょう。

  ブラザー・ロジェさんは、「心の平和は周囲の人に生きることの美しさをもたらす」と言っていますが、本当にそうだと思います。いついかなる境遇にも心の平和をもって満足して生きている人は、生きるという事の喜び、美しさを示すことができるでしょう。

  彼は、境遇に満足することを「習い覚えた」と語っています。境遇への満足は慣れもあるでしょうが、彼にとってはそれは自然に起こることでなく、「習い覚える」べきことでした。それほど絶えられぬ過酷な境遇に置かれる事があったからでしょう。その過酷さがどんなものだったかはコリント後書6章や11章をご覧下されば分かりますが、その状況下でも心の平和、満足を得ることができたのでしょう。

  そのような所でも、神はそこに共にいて下さることを発見するように彼は自己訓練し、学習し、習得したのでしょう。その結果、13節にあるように、「私を強めて下さる方のおかげで、私にはすべてが可能です」というまでになったということでしょう。キリストがお与えくださるものは何という逞しい精神でしょう。

  「私を強めて下さる方」というのは十字架のイエスです。彼を強くしたのは十字架と復活の主でした。彼は、自ら進んで十字架にかからり、死の中から力強く復活された方のことを思うと、いかなる境遇においても主は強めて下さることを知ったのでしょう。逆境の中で強められて、逆境も彼の喜びになったかも知れません。

  妻が先日、家の前に落ちていた紙切れを拾って来ました。そこに走り書きがありました。日蓮正宗の方のようで、「聖人が残虐な死に方をする訳がありません。…」と書かれていました。いや、そうではないんです。自ら進んで残虐な十字架について下さったから私たちは大いに強められるのです。そういう方だからパウロは強められました。十字架から光が漏れ来たっているのです。しかしその一番大事なことを勉強しておられない…。

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  今日の最初の所には、「さて、あなた方が私への心遣いを、遂にまた表わしてくれた事を、私は主において非常に喜びました」とありました。

  心遣いとは、前後関係から、パウロへの贈り物であったろうと推測されます。物であったか、彼の伝道費用の支援であったか、詳細は分かりませんが、彼らの力強い支援であったことは間違いありません。

  いずれにせよ、「また」とありますから、フィリピの人たちは以前にもこういう心遣いをしたのでしょう。そして今回、「遂にまた」と言います。「遂にまた」とは微妙なニュアンスです。

  遂にしてくれたと言うと、聞き方によっては、パウロが心待ちにしていたように受け取れます。そして「遂にまた」してくれたと言うのですから、乞食根性でもの欲しそうに期待していたように受け取られないとも限りません。

  それで、「物欲しさに、こう言っているのではありません」と釘を刺したのです。

  少し細かく申し上げましたが、全体では、ここにはパウロの喜び、彼の率直に喜んでいる姿、フィリピの人たちがここまで支え、慕ってくれることへの感謝。彼らが今も信仰に堅く立っている姿を知って、喜ぶ思いが全体に溢れています。

  伝道者の一番の喜びは、福音を宣べ伝えた人たちが信仰に堅く立ち続けてくれることです。福音を拠り所に社会で活動してくれる。家庭でその福音によって生かされている。そういう信頼関係が伝道者の喜びです。

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  そして彼は、事柄のついでに11節以下の有名な言葉。先ほど申しました、「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と書いて、「貧に処する道も、富におる道も知っている。飽く事にも飢える事にも、富む事にも乏しい事にも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。」ほぼ今の聖書と同じですが、前の口語訳聖書はそう訳していました。境遇に満足すること、境遇に処する秘訣です。

  京都の竜安寺(りょうあんじ)に行きますと、竜安寺だけではありませんが、お庭に手洗いのための石の蹲(つくばい)があります。その蹲には真ん中に口の字が掘られて、それを中心に「吾、唯足るを知る」という4文字が右回りで刻まれています。「吾、唯足るを知る」です。

  パウロがフィリピの人たちに書いた言葉も、ほぼそれと同じ意味の言葉でした。古今東西、宗教のいかんを問わず、「自分の置かれた境遇に満足すること」は共通するものがあるのでしょう。古今東西の宗教に共通する視点、接点の一つがここにあるかも知れません。

  パウロは何十年にも渡る伝道旅行において、歓待される時もありましたが、冷たくあしらわれる日もあり、今日はよくても、明日は分からない日を過ごしました。だが、彼は暮らしのためでなく使命のために生きていました。主のみ言葉に応えることが嬉しくてならなかったのです。その中で、どんな境遇にも満足することを習い覚えたのでしょう。
  
        (つづく)

                                 2010年3月14日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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