人生の優先順位 (下)


トゥーンの町の一つの名物はオールドタウンのメインストリート。ご覧のように地面と2階に歩道があります。
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                                              人生の優先順位 (下)
                                              フィリピ4章8-9節
  
  
  
                                 (4)
  パウロは、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと…」など、私が先ほど7つの真珠と呼んだ言葉を語りました。

  ただ、これまで述べたように人生の優先順位が大事だからと言って、それをずるけたからダメだ、失格者だと、無力感や罪障感を抱く必要はありません。むしろそうしたことで無力感に打ちのめされないことが大事です。大事なのは自分が召されている身近な小さなことや、神様から与えられた人の目に隠されていることなどを心を込めて果たして、神様に応えていくという姿勢です。それがここで語られている本意です。

  「何よりも重要なことは、自分がなすべく召されている、小さな事を十分に果たし、その召命にできるだけ忠実であることです。そしてそこから得られる喜びと平安をしっかり握りしめることです。私を絶望の淵に引き込み、私をもう1人の犠牲者にしようとする暗闇の力の誘惑に立ち向かわなければなりません」(ヘンリー・ナウエン)。聖書を読むものにとって、これは味わい深い言葉です。

  で、9節で、「私から学んだこと、受けたこと、私について聞いたこと、見たことを実行しなさい」と語ります。信仰は知識だけではありません。知ったことを実行すること。実践することです。

  むろんパウロは行いによって義とされようと考えていません。ただ単純に、以上のことを「実行しなさい」と語るのです。

  天国には椎茸のようなものが沢山積まれているのはご存知でしょうか。椎茸に似た形の、柔らかいものです。それは何かと言うと、耳だけが救われて天国に来ている無数の耳だということです。

  耳だけ救われたいですか。それとも自分の全体が救われたいでしょうか。もし存在全体の救いを望んでいるなら、「私から学んだこと、受けたこと、私について聞いたこと、見たことを実行しなさい」とパウロはいうのです。

  「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」先週と同じく、今日の所にも「平和の神」や「神の平和」という言葉遣いが出てきました。

  平和の神が共におられる所から、人への接し方、自分への対し方、自分の取り扱い方が出て来る時、それはキリストによって味つけされたものになるでしょう。キリストの平和の心をもって生きて行くとき、生活が単純明快になります。現代社会の錯綜した生活が一点に絞られて行きます。すると担う重荷も軽くなります。

  長い竿竹(さおだけ)の端っこを持って持ち上げようとすれば重くてたまりません。だが迷わず真ん中を持てば軽く持ち上がります。問題としっかり向かい合えば負い易いのです。

  優先順位がはっきりしているからです。すると色んなものから自由になり、顔も輝きます。

  女性は若い時は誰しもみずみずしく美しいでしょう。若い時の愛くるしさは当然です。だが、50歳、60歳、70歳になっての顔と物腰は自分が作るものです。それは一朝一夕にはなりません。

  19歳の真央さんのあの愛くるしさ。あれが50代、60代になってどんなお顔になるか。物腰になるかが見ものです。フィギュア・スケートの演技もいいですが、人生の舞い姿が今後どうなるのか、そちらの方に私の関心があります。そして人生の舞い姿こそ最も重要です。

  神の平和はたとえ挫折しても与えられるものです。いや、挫折の経験のある人の方が、より味のある平和が授けられるでしょう。そこに人生のパラドックス、信仰における不思議なパラドックス、逆説があります。祈りましょう。

          (完)

                                  2010年3月7日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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