打ち明ける人を持つ (上)
スイスのトゥーン川にかかる堰
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打ち明ける人を持つ (上)
フィリピ4章6-7節
(序)
私たちはじっくり問題を聞いてもらえる人を持てば、事柄の大半は解決されています。誰にも打ち明けられないなら、苦悩はどんなに深刻になることでしょう。
詩編39篇の信仰者が、「私は口を閉ざして沈黙し、余りに黙していたので苦しみが募り、心は内に熱し、呻いて火と燃えた」と語っているように、腹に溜まる思いを打ち明ける人がない時には、苦しみが内にこもって火のようにまっ赤に燃え、身を焦(こ)がしてしまいます。別の詩編の信仰者も語っています。「心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする」(73篇)。こういう孤独な生活は、精神的にも身体的にもよくありません。やはり打ち明けうる人を一人でも持つなら、心の平和が回復され、耐え難い苦しみも和らぎ、救い出されるでしょう。
今日の題は、「打ち明ける人を持つ」としました。しかしこの「人」というのは、結論を言えばイエス・キリストまたは神を指しています。打ち明けうる方、神、キリストを持つ幸いをお話ししたいと思います。
(1)
さて6節に、「どんな事でも、思い煩うのはやめなさい」とありました。思い煩いとある言葉は、元のギリシャ語では、心を幾つにも分裂させること、心配し、気にかけ過ぎることを指しますが、それをきっぱりやめなさいと勧めています。
その理由は直前にあります。「主はすぐ近くにおられる」からです。主が近くにいて下さらないなら恐れもしようが、主が共にいてくださるから心を乱す必要はないというのです。
それは人のことにおいても、自分のことにおいても、です。最近では、株や投資信託で大損をした人が多くいます。その事もやっぱり「思い煩うのはやめなさい」ということでしょう。ぶつぶつ言っても仕方ありません。また、あの人をどうやっつけようかとか、そんな事も色々思い煩う必要はないのです。
パウロはローマ書で、自分で復讐(ふくしゅう)しないで、神の怒りに任せなさいと語り、「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」と言っています。神の復讐を楽しみにせよと言うのではありませんが、チクショウ、チクショウで一生終ったら詰らない人生になります。
それに対し、むしろ、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と今日の聖書は語るのです。
「打ち明ける」とは、腹蔵(ふくぞう)なく告げることです。明かに知らせ、報告することです。ですから報復したいという思いや滅ぼして下さいという思いがあるなら、それもことごとく神の前に持ち出す。心に湧き出るものを遠慮なく申し述べるのです。
求める先から、こんなことを求めたらダメ、あんなことを言っちゃあダメと心配する必要はないのです。もしそれがおかしい求めなら、求める中で必ずキリストは教えて下さるからです。
神に打ち明けるのは、パウロが言うように、神は、神を愛する人たち、神を求める人たちと共に働いて、「万事を益となるように共に働」(ローマ8)いて下さるからです。
では「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」とは、どういうことでしょう。
私たちは日常生活で、ひどい言葉を浴びせられたり、思わぬ態度を受けたりする場合があるでしょう。家庭でもそうですし、職場や他の場所でもそうです。
そういう場合、むろん腹が立ちますが、だが考えてみるとそんな中にも、「何事につけ、感謝を込めて」とあるように、感謝すべきことが含まれているかも知れません。
ある時は相手が反面教師になります。ああ、あんな態度を取らなくてよかったと思わせられます。自動車を運転していると危険な運転をする人たちがあります。すると、ああ、アレはしちゃあいけないんだったと忘れていたことをガンと思い出させてくれたりします。それは感謝です。
生活態度においても同じです。この人は何て気の毒な人だろうとか、何て浅墓なんだろうとか、自分の生き方を考える機会になるのも感謝です。あるいはまた、キリストも自分と同じように酷(ひど)い言葉を浴びせられ、酷い扱い受けたことを思い出して、キリストの受難とその愛の深さを思い巡らす機会にすることも出来ます。また、自分もキリストを十字架につける人間でないかと、自分の罪を示される機会にもなります。
このように、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」ることが出来るでしょう。
更に詩編61篇にあるように、自分に失望して、「心が挫(くじ)ける時、地の果てからあなたを呼びます」とありますが、自分に挫折(ざせつ)し、挫ける時も神を求めて祈りと願いをささげることが許されています。
それは、「あなたの重荷を主に委ねよ、主があなたを支えてくださる」(55篇)と約束されているからです。
(2)
随分(ずいぶん)前の話ですが、梅雨のしとしと降る夜、知らない方が相談に来られました。電話では「懺悔(ざんげ)したい」と言っておられました。
どういうことかとお聞きしましたら、その方は大変な苦境に置かれていました。実に気の毒で、結婚相手に裏切られたのです。「そばに包丁があったら、彼を刺し殺したでしょう。殺してもいいと言われたら、今からでも殺しに行きます」と言われました。ただならぬ雰囲気に、新聞に載る事件はこういうケースだと思いました。
というのは結婚のために会社に辞表を出し、翌日彼から印鑑を押してもらって結婚届を出しに行ったら、彼に妻子がいることが分かったというのです。むろん妻子のことは聞いていないし、彼の両親とも何度も会っているが、両親からも一度も言われたことがなかったそうです。私もそれには驚きました。
社会には何という人たちがいるのでしょう。社会は聖書では海に譬(たと)えられることがありますが、表面は穏やかそうに見えても、海底では恐ろしい生き物、奇怪な生物がいるという事でしょうか。
彼女は努力家でした。苦労し、努力して来た人です。小さい時は母からいじめられ、アル中の父からは暴力を受け、実家は東北の辺鄙(へんぴ)な雪国ですが、少女時代にはタバコの火を押し付けられたり、床下の狭い真っ暗な食物保存庫に一日中閉じ込められたそうです。唯一頼れる親からそんな仕打ちを受けるとは全くの孤独です。本当なら児童相談所に保護される少女でした。
でもそこからやがて抜け出していかれます。そういう家庭ですから、一日も早く家を出たいと思って高校から家を出ました。短大は自分で稼ぎながら卒業し、大学も歯を食いしばり自活しながら卒業したそうです。
町をぶらぶら歩いていて、人ごみの中にそういう方がいると思うと、人ごみを見る目が違ってきます。
大学を出てある男性と出合って結婚の約束をするようになりますが、彼女の父親がアル中であることや、母親との不仲を理由に一方的に破棄されたのです。彼女自身には何の罪もありませんが、男性の家庭は旧家であったらしく、不釣合いを理由で破棄されました。
そして今度の男性です。
しかも運悪く、立て続けに、未だ和解できていないアル中の父が病気で突然死に、葬式の日は病院の予約日でどうしても遠くの実家に帰れないという、踏んだり蹴ったりの状況です。病院というのは、未だ20代ですが彼女は癌を患っていて、すでに手術をも受けています。
「包丁があったら刺したでしょう。殺してもいいと言われたら、今からでも殺しに行きます。」浅田真央さんの口惜しさどころではない。あちらはメダルの口惜しさですが、こちらは生き死にの鋭い口惜しさです。人生の不運と不幸、裏切られ、就職もなく、前途に光のなくなったことへの口惜しさです。
(つづく)
2010年2月28日
板橋大山教会 上垣 勝
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