愛の源はどこに (4)


                        トゥーン川からの旧市街と教会の眺望
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                                              愛の源はどこに (4)
                                              ヨハネ13章31-35節


                                 (4)
  別の福音書では、今日の聖書の箇所に、最後の晩餐の記事が出ています。しかし、ヨハネでは最後の晩餐はなくて、その代わり、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という新しい掟と言われる命令が来ているのです。最後の晩餐というのは、抽象的に言えば、「私があなた方を愛した」ということです。そしてそれによって、「あなた方も互いに愛し合いなさい」ということへと押し出されて行く。それが最後の晩餐であり、今日の私たちの聖餐式の意味です。

  今後、復活のイエスとの出会いは、最後の晩餐、聖餐式、聖餐のパンとぶどう酒をいただく中で、出会えるのです。それを味わう中で、キリストが私たちのために命を捨て愛して下さった事、私をそこまで慈しみ、愛して下さっている事、そしてキリストと共に神は私のような者を復活させてくださる事、そういう出会いをそこでして下さる。

  聖餐に与る中で十字架のキリストに出会い、復活のキリストに出会えるのです。今日の聖書はそのような福音を語っています。

  「新しい掟」と言われる「新しい」とは、時間的新しさではありません。質的な新しさです。決して古くならぬ新しさです。十字架の愛は、歴史の中で起ったただ一回限りの決定的な神の愛です。ですから金輪際決して古くなりません。常に新しさをもって私たちに迫って来ます。

  このことは、ヨハネ福音書に最後の晩餐の詳しい記事の代わりに、イエスが弟子たちの足を洗われた洗足の記事に置き換えられていることからも言えます。イエスは弟子たちの足を洗うことで、彼らを極みまで愛しぬかれたとあります。

  聖餐があるべきところに洗足が置かれているという事は、聖餐というのは、私たちを極みまで愛する愛であることを示そうとしているのです。

  すなわち、愛の源はイエスがその命をお与えになり、極みまで愛し尽くされた所にあります。そこから私たちに授けられる尽きない愛の泉が湧き出しているのです。

  それは私たちの努力で汲み出すものでなく、キリストご自身の業であり、また父なる神の業として愛の泉が聖餐において湧き出しているのです。その愛の泉である聖餐に、信仰をもって行けばいいのです。愛の泉に行きさえすれば、私たちは誰でも愛の水に与ることが出来るのです。

  私たちは決して一人ぼっちではありません。キリストは常に共にいて下さり、私たちの間に住んで下さっています。ただ、常に共にいてくださる主の愛の声に耳を傾けなければその嬉しさが分かりません。

  私たちは、キリストが共にいてくださることを繰り返し深く味わうために、愛する兄弟姉妹と礼拝に集い、交わりをなすのです。

  最後に12章46節を味わいましょう。「私を信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように、私は光として世に来た。」

       (完)
                               2010年2月21日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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