自分を打ち明ける人を持つ (下)


                            トゥーン城からの帰り道
                                ・  ・
  
  
  
                                              打ち明ける人を持つ (下)
                                              フィリピ4章6-7節
  
  
  
                                 (3)
  私は言葉を失いました。言葉を探しましたが中々見つかりません。

  しかし最後に、彼女が誰かを裏切ったのでもなく、傷つけたのでもないことを語りました。また、今は未だ芽は出ていないが、彼女のして来た努力は決して無駄にならないことを語りました。

  会社に辞表を出したために、その後20社ほどを廻ったのに、不況のために断られてばかりです。若い女性です。路上生活者になるわけにもいきません。

  私は言葉を失いながら、後ろを見るのでなく前を見て進むようにアドバイスしました。そんな男の事はすぐにも記憶から抹殺して、今は未だ闇の中にあるが、あなたの前方にある光に向かって進まれるようにと言いました。そしてその前方の光の一つとして、今年度の前半、礼拝の招きの言葉で読まれて来た聖句を、この教会からあなたに差し上げることのできる唯一の言葉として、差し上げました。

  「涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」(詩編126篇)。

  あなたは、今、涙と共に種を播かねばならないでしょう。しかしどれだけ長く播き続けなければならないか分かりません。今種を播いても、刈り入れまで当分あります。その期間、ひもじい思いで待たなければなりません。穀類なら数ヶ月でしょうが、人生の種が成長するのは数ヶ月でなく数年、数十年かかるかも知れません。しかも一日一日、種の手入れが必要です。手を抜いてはいけません。待つのです。台風が来るかも知れないし、日照りがあるかも知れません。しかし穂が育つのを待つのです。

  その「待つ」という生き方があなた自身を育てるでしょう。

  そうすれば、必ず「束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」でしょう。こう言って励ましました。その後、音沙汰はありませんが、私の心には彼女がうまく行くようにという祈りがいつもあります。信仰を求めてくれるようにとの思いも熱く持っています。

  もし彼女が神とキリストに祈ることを知るなら、今日の7節にあるように、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう」からです。

                                 (4)
  束ねた穂を背負って帰って来るまでまだ待っておられるのかも知れません。しかしこの方が、教会に来て、打ち明けて下さって本当に良かったと思いました。相談する相手が間違ったら、今頃新聞沙汰になっているかも知れません。だがしかし、今申しましたように、人間でなく、神に、キリストに打ち明けることが出来るようになれば、「神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスにあって守る」ようになられるでしょう。

  この「守る」とあるのは、町や砦を衛兵が厳重に守ることを指します。警護すること、安全に守備することです。しかしパウロは、人間や衛兵でなく、人知をはるかに越えた神の平和が心と考えとを守ってくださると言っているのです。

  パウロは今、獄中にあります。牢の守りの固さをよく知っています。守備兵で固められた要塞のようなローマの牢獄は誰も打ち破れません。その堅固さを実感しつつ、同じ言葉を使って、神の平和がイエスによってあなた方の心と考えを守るでしょうと述べるのです。

  そして神の平和は要塞のような物々しい緊張感のある静けさでなく、喜ばしさと安心感に満ちた心の平和を与えます。

  私たちの心や考えが人知を越えた神の平和で警護される時、心は穏やかに澄んで来ます。生きることの優しさが生まれます。他者やものへのいたわりや優しさも生じるでしょう。主にある喜び、生きる喜びが生まれます。また、広い心も備わって来るでしょう。

  祈りの生活が身につくと、神の平和、心の平和を命の中心に置いて下さる。キリストが心の中心に来て、そこに住んで下さる。それがここで言われていることです。

  思い煩いの中で生涯を過すことは、決してイエスが勧められる道ではありません。

  「感謝を込めて祈りと願いとを捧げ…」とある、これが思い煩いを遠ざける道なのです。神の前に「感謝を込めて祈りと願いとを捧げ」て座ること。神が私たちの聞き手であり、私たちの話し手であり、神を相手として生きるのです。この方に聞き、この方の導きにのみ従うのです。

  その時、心は単純になり、平和になり、澄んで来ます。その時、誰とも私たちは対等であり恐れないでしょう。牙をむく必要もありません。私を安全に警護して下さる方がおられるのですから、自信を得、心の余裕を得て、私が私らしく振舞うことが出来るでしょう。

  「心と考え」とありますが、心というのは移ろいやすく、変わりやすく、脆くもあります。また考えは固定化し、変わりにくく、硬直する事もあります。だが、神の平和が私たちを支える時、心は柔らかく、伸び伸びし、同時に堅固で揺るぎないものにして下さるでしょう。

  また神の平和が私たちを変容させてくださるでしょう。そうです。私たち自身が悩み傷つく人々を励まし、希望を与える人に変容させてくださるでしょう。

  ぜひ皆さん、打ち明ける人、打ち明ける方を持ってください。それが今後の人生の鍵になります。

        (完)

                                 2010年2月28日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/