愛の源はどこに (3)
トゥーン城から教会への道
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愛の源はどこに (3)
ヨハネ13章31-35節
③ むろん聖書を通して、復活のキリストに出会います。しかし、愛し合い仕え合っている弟子たちを通して、人々はあなた方が「キリストの弟子であることを知り」、キリストはどういう方であるかを知るようになるのです。この具体性のない信仰生活は、人々に証しする力を持ちません。ここで語られているのは、弟子たちの愛による証しです。それはうるわしさ、芳(かぐわ)しさを放ちます。
そのために感動的な愛とか、目を見張るような大きな愛とか、熱い愛とかを想定しないで下さい。ささやかな思いやり、小さな心遣い、配慮、その中でキリストが輝きます。
むろん、この後の15章で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とおっしゃっていますから、大きな愛を排除するものではありませんが、讃美歌に、「ささやかなる、しずくすら、流れゆけば、海となる。こまやかなる、真砂(まさご)すら、積もりぬれば、山となる」とある通り、日常的な小さな思いやりが大切です。
若い時の私は、恥ずかしいことですが、背伸びしていたと思います。背伸びは借り物ですから、結局身につきませんでした。むろん身についた事もあったでしょうが、しかしこの年になって思うのは、ありのままの自分から始めるべきです。その時、地に足が付いた基盤のしっかりしたものになります。ある人が言っています。「私たちはただ、能力の限界や弱さを持った、あるがままの自分から始めることによって、強くなることができます。神は、土の器である私たちの内に、福音の宝をお置きになっているのです」(ブラザー・ロジェ)。本当にそう思います。
色んな方がAさんをお見舞い下さいました。嬉しいことです。ご本人を前に言いにくいのですが、Bさんが重いC君をおんぶして、凍てつく日に、傘をもって埼玉病院までいらっしゃったそうで驚きました。仙之助さんも、亡くなるちょっと前に2人の子どもたちを連れてお見舞いなさったという事でした。キリストの兄弟愛は、凍てつく日であればあるほど、真実になり、まことになり、キリストが輝いて下さるのです。それはキリストを指し示す業です。
先ほど申しましたが、15章でイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とおっしゃっています。自分の命を捨てるというと中々出来ないし、大げさだと思ってしまいます。しかし、自分の時間を人のために割くことも、自分を捨てることだと見るべきです。神のために時間を使う所に大きな愛があります。
人の為といいましたが、最も近くにいる人は家族でしょう。その隣人のために時間を使う。例えばこっちがしゃべってばかりいないで、じっくりと聞く。それが命を捨てる、愛するということです。そのようなことが大事です。
それが、イエスがここで残される「新しい掟」です。なぜ新しい掟なのか。それは、言葉や命令以上のものだからです。
どういう事か。
(つづく)
2010年2月21日
板橋大山教会 上垣 勝
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