愛の源はどこに (1)


                          トゥーン城には牢屋もありました。
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                                              愛の源はどこに (1)
                                              ヨハネ13章31-35節




                                 (1)
  今日の聖書の冒頭に、「ユダが出て行くとイエスは言われた、今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」とありました。

  とても不思議です。少し前の27節で、イスカリオテのユダがイエスからパン切れを受け取った時、「サタンが彼の心の中に入った」と書かれています。彼は直ちにそこを出て祭司長たちに通報しました。時あたかも、「夜であった」と30節にあります。サタンが最も勢力を奮う夜の時、闇の時であったと象徴的に語るのです。

  ひとたび賽が投げられ、ユダがイエスを裏切る陰謀を実行したのです。イエスは十字架刑という実に不名誉な死を遂げるために引き渡されます。それは神に捨てられ、呪われた死とさえ言われます。それがどうして「栄光」でしょう。しかも31節、32節に5回にわたって「栄光」という言葉が出てきます。でもこれは敗北であって、栄光と言えるでしょうか。

  結論から言いますと、人の子であるイエスにとっての栄光は、「無償の愛」を与えることです。まことの愛を与えることがイエスの栄光、誉れです。イエスが留保なく、手に何も残さず、全てをもって人を愛し尽くされた所に、気高い神の愛が輝いています。「力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」とは、先ずイエスご自身に当てはまります。イエスご自身がそうされ、その愛が十字架上で明るく永遠に輝いたのです。

  暫く前のイギリスの新聞に、英国のカトリック大司教が医療サーヴィスについてコメントを出したと報じられていました。この辺は、日本のキリスト教が未だ出来ない所です。むろん仏教、神道はそんなことをしませんし、関心がないようです。

  そのヴィンセント・ニコルスさんは、イギリスの医療機関の中には、深い思いやりや憐れみの心が欠けている病院があると言っていました。患者を、単に医療の問題として扱っている。心がないとの批判です。全てでないがが、日本の医者の中には、患者を金儲けの対象として見る傾向があります。また、人間を単に部品で組み立てられているものとして、唯物的に考える人たちも多くいるようです。

  ニコルスさんは、「深い思いやりと癒しの文化」が必要だと語っていました。人の人格に対して深い尊敬を抱き、注意深いケアをすること。他人の人格と体に触れるわけで、謙虚をもってなされなければならないというのです。

  私がイギリスにいた頃、急病で大学病院に行きました。ベッドの上で診察が終わり、服用する薬のことを聞き終わってお礼を言おうとすると、40代の医師がにこやかに笑って「サンキュー」と言ったのです。医者が患者に「サンキュー」というなんて、これまでの日本の経験では考えられないことでした。イギリスの医療の問題点も多く聞きますが、こんな医師もいるという事は、日本で声を大にして言わなければなりません。

  ここでニコルスさんが言わんとしているのは、愛をもって仕えることこそ、医者の栄光であり、誉れであると言いたいのでないかと思いました。また、キリストが十字架の死に至るまで全てを与えて仕え、謙遜をもって生きられた。そこに医療従事者の目指さなければならない所があると言わんとしておられるように思いました。

  日本でも、こういう事を宗教界がもっと発言する必要があると思います。

          (つづく)

                                2010年2月21日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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