泣きながら夜を過しても (下)


                          トゥーンのお城の窓からの眺望(2)
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                                            泣きながら夜を過しても (下)
                                            詩編30篇1-13節
  
  
                                 (4)
  彼は反抗する中で一つの真実を知ります。それは、神は私たちを根底から支えて下さっているということ。私たちが地上に存在するのは、神の然り、神の絶対的な肯定が背後にあるからであり、神の絶対的自由によって私たちが創造されていることです。そして、神が切に望んでおられるのは、全被造物が神に帰ることです。神に応答し、神を賛美し、喜ぶことです。

  アウグスチヌスが、「神は、人間を神に向けてお造りになられた。ですから神を見いだすまでは、人は安らぎを得ない」と言ったのは本当だと思います。

  先週申しましたが、神は、人間を神に響き合うようにお造りになり、更に、神がお造りになった大自然にも響き合うようにお造りになっています。そう作りつけられている。神との響き合い、自然との響き合い、他者との響きあい。それがうまく行く時、人は自分の存在意義を最もよく理解します。またその人生を喜べるものになります。

  そのため、この信仰者は、「塵があなたをほめたたえるでしょうか」と言うのです。この言葉は詩編の他の箇所にも、イザヤ書にも似た言葉が出てきます。

  あなたは、あなたをほめたたえるように人間をお造りになられたのです。だが塵はほめたたえることはできません。だから人間である私を、「墓に下」らせないで下さいと訴えているのです。

  そしてこのような祈りをする内に、実際、彼は危機の中から救い出されました。先ほどの6節のそうです。「ひと時、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過す人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」長い死闘の戦いの夜が終わり、朝日と共に夜が明け、神によって闇の勢力が平らげられ、キリストの復活による新しい朝が訪れる。神がキリストを墓の中から復活させ、私たちに喜びの歌を授けてくださるのです。

  また3節の言葉もそうです。「私の神、主よ、叫び求める私を、あなたは癒して下さいました。」4節もそうでしょう。「主よ、あなたは私の魂を陰府の中から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、私に命を得させて下さいました。」

  「命を得させて下さった」とはどういうことでしょう。6節にも同様の言葉がありました。これは、命の充実、充満、人生において自分が豊かに発揮されること、また、神のあふれる愛が命の限り続くことを意味します。

  この信仰者は、神との個人的な交わりの中で、神と格闘することもありつつ、遂に神から命を与えられ、神の溢れる愛を知って、自分を豊かに発揮するようになったのです。

  彼は、神との個人的な出会いの中でそれを授けられました。神が出会ってくださることによって、心が変えられ、物の見方が変えられ、人の中での行動の仕方も態度も変えられ、未熟な態度でなく成熟した人間関係を結べる人間へと創り変えられていきます。

  命を得させて下さる時、希望を与える人になるでしょう。社会に僅かの希望の光でも灯すことができれば、それは神様から命を得ているという事でしょう。

  神は、私たちが神の命を得て、社会の中で命が十分に発揮されることを御旨として下さるのです。

                                 (5)
  そのために彼は、5節で他の人たちに呼びかけるのです。

  「主の慈しみに生きる人々よ。主に賛美の歌を歌い、聖なるみ名をたたえ、感謝をささげよ。」6節もそうです。「ひと時、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過す人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる。」

  神から命を得させられた彼は、自分の救いを他の人たちに証しするのです。人が理解してくれるかどうか気をもみます。どこまで理解してくれるかも気になります。でも誤解を恐れず、主の証人として証しして生きるのです。

  主を証しするにはリスクが伴うかも知れません。だが、それを神への賛美、捧げ物、喜びとしてします。13節は、「私の魂があなたをほめ歌い、沈黙することのないようにして下さいました」と歌っています。

  「何が人生に真の方向性を与えるのでしょうか。自分が選択し、努力し甲斐のある目標は何でしょうか」(ブラザー・アロイス)。

  彼にとっては、それは万物の命の根源である神を証しすることです。歴史をご支配される主、世界の主であられる神を証しすることです。この方(かた)に向かって心を開いて進むこと。そこに命を十分に生きる道があります。人生における魂の渇きが満たされる道があります。

  これは、先ず何よりも、自分の意志力で満たすことができたり、獲得できたりする道ではありません。何より、神が命を得させて下さる道です。

  最後に、先ほどお読み頂いた招きの言葉を静かに味わいましょう。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ここに命を得させて下さる道があります。

        (完)

                                  2010年2月14日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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