泣きながら夜を過しても (上)


                          トゥーンのお城の窓からの眺望(1)
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                                            泣きながら夜を過しても (上)
                                            詩編30篇1-13節

                                 (序)
  (皆さんがお祈り下さり、やっと薬で痛みを和らげることが出来るまでになりました。ご心配をおかけしました。いつまで続くか、今後は薬でコントロールすることになると思っています。この間はAちゃんに、「ジッちゃん病気どう?」と心配されました。きのう妻が遠方に住むBさんと話していたら、受話器の向こうで、「ジッちゃん、病気治ったか?」と疑問文の過去形を使って3歳2ヶ月のCちゃんから聞かれたそうです。ともかく幼児に至るまで、皆さんにご心配をおかけしました。)

                                 (1)
  人生を歩み続ける中で、肉体の弱さや心の脆(もろ)さを感じる事が時どきあります。今度の場合もそうでしたが、例えば愛する者を亡くした場合もそうです。今はすっかり元通りになっておられますが、お元気なDさんが2年前にご主人を亡くされた後、半年以上、周りの私たちはかなり心配しました。Dさんでも、そんなに弱るのかと思った方もあったのではないでしょうか。

  その他、他の人が嘗めている試練に何も手を差し伸べることができない場合や、悲痛な別れに何もできない場合など、皆さんもこの何年間かに、そんな手痛い経験や悲しい出来事、ご自分の弱さを味わった方があったかも知れません。

  しかし、こうした経験は必ずしも私たちの人生に終止符を打つとは限りませんし、幸福が終わりになるとも限りません。

  だがどうでしょう。自分自身を信じる事ができなくなる程の失敗をしたり、取り返しのつかない過ちを犯した場合は。責められても何ら言い訳できない所に立たされ、打ちのめされた場合はどうでしょう。ある程度の年配になれば、いや、年配になってもそういうことが起こります。しかし、もうそんなことはないと思う人でも、若い頃を振り返ると、思い出したくないそんな出来事があるかも知れません。

  誰からもあきれられ、誰からもやっつけられる事をしてしまった場合です。その時は、自らの罪に泣くしかないのでしょうか。話しは少し違いますが、芭蕉富士川の畔(ほとり)で捨てられた赤子に遭遇しました。そこで彼は、「自らの性(さが)の拙(つたな)さに泣け」と、「野ざらし紀行」で書いています。わび、さびの芭蕉がそう書きました。それが世の現実であり、前世の因縁・宿命だとしか言えないのでしょうか。

  しかし聖書は全く違った見方をしています。

  ヨハネ福音書に生まれつき目の見えない男が登場します。彼は乞食をしていました。弟子たちは、彼が罪を犯したためですか、それとも、親が罪を犯したためですかと聞きます。何の因縁ですかと言うのです。しかしイエスは、全く違った見方をされました。「彼の上に、神の栄光が現われるためである。」過去でなく、イエスは彼の将来に光をあてられます。過去から出なく、将来から彼をご覧になりました。

  6節に、「泣きながら夜を過す人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」とありました。この「夜」はいっ時の短い夜ではありません。長い長い、中々明けない人生の夜です。そんな長い涙の夜があっても、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。キリストにおいて新しい朝があるのです。

  この詩編の時代にはまだイエスはお生まれではありません。しかし、私たち信仰者はキリストに於いてこそ、泣きながらの夜があっても、喜びの歌と共に朝がやって来ると思います。

                                 (2)
  今日の詩編の冒頭で、「主よ、あなたをあがめます」と神に感謝したのは、今述べた絶望的な状況を、この信仰者が経験していたからです。

  人生の挫折や苦労を全く知らずに、「主よ、あなたをあがめます」と言っているのではありません。苦労の暗い谷底を経験しながら、「あなたをあがめます」と言っているのです。

  彼は7節で、「平穏な時には、申しました。『私はとこしえに揺らぐことはない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです」と語りました。

  「私はとこしえに揺らぐことはない」と語ったのは、「平穏な時」でした。砦となるような山、自然の絶好の要害、そういう確かな環境や状況に取り囲まれていたからですと言うのです。だが、ひとたび「神が御顔を隠されると、たちまち恐怖に陥りました」と、8節の最後で告白しています。

  この信仰者は大変率直です。これは「ダビデの詩」とありますが、驚くほど素直に自分の弱さを告白しています。

  ともかく彼は、その平穏はいかにはかなく脆いものであるかを悟らざるを得なかったのです。

  「神が御顔を隠されると」というのが具体的にはどういうことであったか分かりませんが、この詩編全体から想像すれば、神の恵みが分からなくなり、10節や4節にあるように「死んで墓に下る」あるいは「墓穴に下る」とあるように、死の一歩手前に立たされてしまったことかも知れません。「陰府」ともありますが、世の凄まじい地獄を経験したのでしょうか。

                                 (3)
  しかし、神が御顔を隠され、神に打ち捨てられたという痛烈な経験をしながら、その厳しい辛さ中で、彼は神に叫ぶことをやめないし、実際に神に助けを求めたのです。そこにこの詩編の主題があります。

  それが結果的に、6節の「泣きながら夜を過す人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」という言葉になって行きます。厳しい辛さの中で、なお神に助けを求めることをやめない。その中で信仰による新しい朝の到来を向かえることになったのです。

  9節で、「主よ、私はあなたを呼びます。主に憐れみを乞います」と祈り求めるのがそれです。彼は更に、10節で、「私が死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、私の助けとなって下さい」と叫びます。執拗に神に求めていくのです。

  「塵があなたに感謝をささげ、あなたのまことを告げ知らせるでしょうか」というのは、どういうことかと申しますと、この信仰者が死に、肉体が腐り、塵や土にかえってしまった時、当然ですが、塵や土が神に感謝したり、あがめたり、賛美したりするでしょうか。そんなことがあれば、アニメに登場する物(もの)の怪(け)の世界です。私が、あなたに生かされていてこそ、あなたの栄光はほめたたえられますと、そこまで神に切り込んで行きます。そして、「主よ、耳を傾け、憐れんで下さい。主よ、私の助けとなって下さい」としつこく懇願します。

  私は思います。私自身はこれほど執拗な祈り、訴え、魂の渇きを神に向けているだろうか。ここまで神を信頼して神を渇望しているだろうかということです。

  創世記を見ると、ヤボクの渡しで、ヤコブは夜通し神の使いと格闘しました。祝福して下さらないなら去らせませんと言い張って、神の使いを掴んで決して放さなかったと言います。夜が白み始め、天使は負けそうになって、遂に彼を祝福したとあります。(創世記32章)。

  信仰者とは、単に心優しい、か弱い幼子ではありません。時には、ヤコブのように神と組み打ちし、神の祝福を激しく渇望する者でもあります。

  イスラエルとは、「神に治められる者」という意味と共に、「神と争う者」という意味もあります。神が私たちと全世界を治められるから、神と争うことも許されるのです。子どものように、父親にねだることが許されるのです。

  私は、教会の中に、神と組み打ちするような信仰者・求道者がいて下さっていいと思います。骨っ節の強い、ガリラヤ湖の漁師ペトロのような、ゴツゴツした手をした、胸の厚い、ガラガラ声の人がいて下さるのは素晴らしいことだと思います。この詩編の信仰者はそういう線の太さを持っています。

  むろん線の細さも大事です。繊細な心は大切です。それはまた別の所で出てきますが、ここでは線の太さです。

        (つづく)

                                  2010年2月14日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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