喜びと寛容と (下)


                       スイスの美しいトゥーンの町の中心を流れる川
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                                              喜びと寛容と (下)
                                              フィリピ4章2-5節
  
 
                                 (3)
  パウロは、「主において喜びなさい。重ねて言いますが喜びなさい」と書いています。

  教会から喜びが失せたら、もはや何も残らないのではないでしょうか。どんなに深い神学が語られても、主に対する打てば響くような喜びの関係がないなら教会は死んで行くでしょう。どんな高邁な思想も不毛になるでしょう。私たち個人もそうです。健康で、お金があり、おいしいものを食べ、家に多くの物に溢れていても内から湧いて来る生きる喜びがなければ空しいでしょう。

  福音の喜びとは、私たちが無条件的な愛をもって神に愛されていること。そしてその愛を何者も取り去ることはできないことを知ることです。病気も、貧しさも、挫折も、苦痛も、不幸も、また死も、私たちから神の愛を取り去ることはできないことを知る。ここに福音の喜びがあります。

  福音の喜びは、私たちに子どものような魂を授けます。キリストにある喜びは、5節にあるように、「広い心」、寛大な心を生んでいきます。自分からの自由と共に、他者に対する大きな心を与えてくれるでしょう。

  ある人が言っていますが、福音が与える喜びは、幸せな気分とは違います。色んなことで幸せな気分になれない時も、この喜びはなくなりません。神が私たちを愛しておられることを知っていることから来る喜びだからです。「悲しい時は喜ぶことが出来ないと考えがちですが、神を中心とする人の生活では、悲しみと喜びは同時に存在することが可能」(H.ナウエン)なのです。

  私は、この20日からひどい帯状疱疹になって、今、ペインクリニックに通い始めています。私が青森県にいた頃、70代の教会の方が帯状疱疹のひどい後遺症で苦しんでおられました。県の印刷業界の組合長をしていた方でした。その痛みの激烈さに死ぬまで何年も苦しめられました。痛みで自殺する人もあるそうです。

  私はもし信仰をもっていなかったら、自殺という事も将来あると考えたかも知れません。熱く焼けた鉄板を胸に貼り付けたような痛み!数本の槍で突き刺されているような激しい痛み!それほど耐えがたい激烈な痛みを負ってしまいました。正直を言うと、先週の木曜日までは、これ以上仕事は続けることができないかも知れないと思い詰めました。

  ところが不思議なのです。この地獄の苦しみの中でも、「主は近くおられる」という思いがあって微かな喜びが心の中にありました。主も苦しまれたのです。それが実にありがたかったです。これから、主の苦しみに日々与れるという喜びです。むろんちょっと恐いという思いも混じってのことですが、確かな喜びが存在していました。強がりでしょうか。

  そういう中で、「神を中心とする生活では、悲しみと喜びは同時に存在することが可能」というような、苦しみと喜びも同時に存在することが可能というような経験をしています。幸いなことに、いい医師のお蔭で、まだ完全ではありませんが、麻薬を使って痛みをコントロールできる目途が見えてきたのも喜びです。

  パウロは5節の最後で、「主はすぐ近くにおられます」と書いています。私たちが、主を感じない時も、神に見捨てられたと思える時にも、「主はすぐ近くにおられ」るのです。

  「冬の凍てついた夜にも、心を励ます微かなしるしに目を注ぎ、そのしるしによって私たちの生活を喜びで満たしていく」(ブラザー・ロジェ)ことが大切です。復活されたキリストがおられる。彼は死に打ち勝たれた。このことが喜びへと導いてくれるのです。そのことを知ることは、私たちにこの上ない慰めを与えます。

  悲観すると更に悲観へと向かって行きます。しかし神が果たそうとしておられる微かなしるしに目を向け、それをあえて喜ぶ。すると悲観は収まっていきます。

  主に目を向けると喜びが湧きます。喜びが湧くと寛大な、広い心が生まれます。神を中心として生きる時に、主がすぐ近くに来てくださっていることが信じられるからです。

                                 (4)
  エボディアとシンティケが競い合い、折り合わなくなっているのは、主を忘れているからではないでしょうか。神を中心にするのを忘れているからでしょう。

  だが、パウロは2人をあきらめません。2人に、もう一度初めの頃の純粋な愛と信仰、そして人々に希望を与える存在であった頃のことを思い出して欲しいと願うのです。2人がかつて福音のために、彼と共に戦ってくれた時のことを思い出し、彼がいない今も、2人がフィリピ教会において福音のために仕えて欲しいと乞うのです。

  「あなた方の広い心が全ての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」

  主がすぐ近くにおられることに気づく時、主は、相手のすぐ近くにもおられることに気づくでしょう。何故、主のため、福音のためにあなた方がフィリピの教会に集っているのか、その根幹になる所にもう一度立ち戻って、そこから始めてほしいと願うのです。

  教会生活の根幹。それは主を喜ぶことにあります。主を賛美することです。この喜びは決して「心を傲慢にさせません。また人の賞賛も必要としません。」神を喜ぶ。これは他の何ものにも換えがたい神からの贈り物であります。

         (完)

                              2010年2月7日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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