喜びと寛容と (上)


                  トゥーンの街中を二手に分かれて川が流れて、旅情を誘います。
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                                              喜びと寛容と (上)
                                              フィリピ4章2-5節


                                 (1)
  どこの教会にも、身を惜しまず働く婦人たちがいます。これは初代教会から今日の教会まで、また恐らく将来の教会にわたって、むろん男性もそうですが、献身的な婦人たちが教会を支えていくであろうと思います。

  「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」これは2章2節以下を思い出させる言葉です。そこでは、あなた方は「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして…」などとありました。

  エボディアとシンティケはフィリピ教会の重要な会員で、その中心にいた婦人たちなのでしょう。彼らは3節にあるように、パウロの伝道をクレメンスらと共に支えて、「福音のために」パウロと共に戦って来た、しっかりした勇敢な婦人たちでした。しかし彼らは、時々火花を散らすことがある。いや、火花ならいいですが、しばしば張り合い、激しく対立することがあったのかも知れません。

  「同じ思い」を持っている筈なのに、互いに打ち解けない。和解できる筈なのに、馬が合わないというか衝突していたし、教会は困っていたのでしょう。

  私たちは同じような光景を、あちこちの社会、団体、家庭や趣味の会でも経験していますから、2人の関係はほぼ想像できます。或いは2人の顔が誰かと重なって思い浮かぶかも知れません。

  こうしたことがフィリピ教会にとって、教会全体の問題にならない筈はありませんでした。パウロは先に、フィリピの人たちのことを、あなたがたは「邪まな曲がった時代の中で、非の打ちどころがない神の子として、世にあって星のように輝き」と書きましたし、「あなたがたは私の冠である」とも書きましたが、ここにその評判が地に堕ちないとも限らない事態も持っていたことが分かります。。

  そこで調停のために、「真実の協力者」と呼ばれる人に、2人の婦人を支えてあげて欲しいと依頼したのです。この人はえこひいきせず、まごころをもって接し、両者の良い所を引き出しながら和解させることができる人だと、パウロは考えていたのでしょう。

  パウロは深い信仰と思想を持った大伝道者です。しかし遠く離れた小さな教会の、小さな事柄の解決にも心血を注ぐ人だったことが分かります。彼はこの教会内の葛藤が解決されることが焦眉の急であると考えていたのです。これが今日の箇所のあらましです。

                                 (2)
  さて、パウロはまず2人それぞれに勧めています。エボディアとシンティケとに勧めるではなく、「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」と語り、続いて、「主において同じ思いを抱きなさい」と語りました。「主において」と書いたのは、自分の面子や自己主張において生きず、それを越えて、主において生きて欲しかったからです。

  私たちが目指す目あて、人生の本質が何かを忘れて、枝葉末節のことに眼が行くと、自己主張が前面に出てきます。私たちは大本が何かを常に考えなければなりません。主張や意見はいいのですが、面子からそれをするとなれば問題が生まれます。

  それで「主において同じ思いを抱きなさい」と語ったのです。主イエス・キリストが何をしてくださったか、その恵みを思い起こす時に、共に同じぶどうの木につながった小枝であること。自分も相手も主が支えてくださっている者であることが謙虚に分かってきます。

  負けちゃあいけない。あいつらには絶対負けられないというライバル意識が、向かうべき本当の目あて、ここでは神やキリストですが、その目あてから2人の目を反らせたのかも知れません。或いは、必要以上に相手を恐れて、噛みつくようになっていたかも知れません。弱さを見せたら見くびられはしまいかというありもしない杞憂(きゆう)が、自己防衛的にさせ、攻撃的にさせていたのかも知れません。そのような所から、「主において同じ思いを抱く」という所に彼らを向かわそうとしたのです。

  人間というのは楽器のようなものです。楽器は自分自身において良い音色で響かせますが、人間も歌う時は自分の体を反響させて音を口から出していきますからまさに楽器です。しかし道具としての楽器と違うのは、人間は他者との関係の中でよい音色で響くように造られています。他者というのは人間だけではありません。大自然と共鳴し合う様に造られています。しかしその音色が最も深い、味わいある音色で響くのは神に対して響き、真理、神の言葉と共鳴し合う時です。そのように人は造られているのです。

  また教会も楽器のようなものです。これは響かなければならない。むろん神に響き、キリストに響き、福音と共鳴する時に教会は真に教会らしくなります。

  先日、鳩山首相の施政演説を詳しく読みました。皆さんはお読みになったでしょうか。今、政治のトップは何を考えているのか。どういう人なのか。「あなたがたは地の塩」、「世の光」といわれているわけですから、この世は何を考え、この社会はどういう所かを知るいいチャンスだと思って読みました。

  詳細に読んで第一に思ったのは、当然ですが、これは福音ではない、説教ではないという事でした。説教と政治演説の根本的な違いを思いました。むろん、あれは政治演説ですからあれでいいのでしょうが、説教の本質は神の言葉に響き合っているものでなくてはならないという事を思いました。あそこには福音的要素は皆無です。

  オバマ大統領のには、福音的要素があります。まるで説教でないかと思う所も毎回しばしば出てきます。恐らくそれが多くの人の心を打っているのだろうと思います。それですぐに翻訳さて出版されているのでしょう。

  パウロは、この2人の婦人たちが、主に響きあって生きて欲しいのです。「主において同じ思いを抱く」とは、共に主に響き合う者になることです。そうなれば弱さも、恐れも、自己防衛的な態度も越えて行くことができるからです。神に響いていないから、自分に執着してしまう。人を恐れる。何かにこだわる。

  人を相手にするのでなく、神を相手に、キリストを相手にして行く時、その人生は真実になり、深みを増してきます。パウロはそのことをしようとしているのです。

          (つづく)

                                2010年2月7日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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