私の冠である人たち (下)


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                                              私の冠である人たち (下)
                                              フィリピ4章1節
  
  
                                 (3)
  さてパウロは、「私の冠である愛する人たち」と呼びかけます。「冠」は花の冠を指したり、王者の金の冠を指しますが、何れにせよ栄冠を意味します。。

  冠以上に誇らしいものはありません。それは栄光と誉れのしるしです。古墳を発掘しますと、時々素晴らしいデザインの金や宝石の冠が出土する場合があります。そして、その時代に百済と交流があったとか、地方の豪族が外国と国際交流していたことが分かったりします。冠は、葬られてからも王や王妃の名誉のしるしだったのでしょう。

  パウロにとっては王の冠はいざ知らず、市井に生きる普通の人たちであるフィリピの信仰者は、頭の飾りにしても恥ずかしくない者、誇らしい者と考えているのです。

  箴言に、色んな冠が出てきます。「孫は老人の冠、子らは父の輝き。」確かに孫たちを持って、子どもたちの時には判らなかった楽しさや心の高揚があります。「熟慮ある人は、知識を冠とする。」知識を誇る人は、まだ本当の知識に達していません。熟慮ある人、熟慮できる人こそ、冠ともいえる真の知識を持っていると言いたいのでしょう。女性の方はどう思われるでしょう。「有能な妻は夫の冠。恥をもたらす妻は夫の骨の腐れ。」ただ、腐ったような夫もいるわけで、妻から見た箴言も書き記して欲しい所です。

  いずれにせよ、私も大山教会の皆さんを、「私の冠である人たち」と考えています。お世辞じゃなくて、お一人お一人の、キリストを慕う愛が見え隠れするからです。私とは違った形を取って信仰が表現される方々も素晴らしいと思います。その違いがいいのです。また、それぞれが担う重荷、十字架は違いますが、それを信仰において担おうとしていらっしゃる所が一番尊敬できることです。

  むろん完全な人はどこにもいません。私も完全ではありません。だが、弱さを持ち、躓きながらも、何とかしてキリストの栄光を表わそうとしているし、皆さんもそうしておられる。そこが本当に感謝なところです。

  このような所から、皆さんは、「私の冠である人たち」と思いますし、そう思って、重い厳しい困難を抱える方のことを、主の前に持ち出して祈るのが嬉しいのです。

  アウグスチヌスは、キリストの肢体である教会に与えられた多く人たちの賜物を列挙しています。そして、キリストの肢体であるそれぞれの人たちが、掛け替えのない賜物を受けていて、皆が同じ賜物を持つことなどありえないと申します。そしてこういいます。

  「愛を保ち、人が持っている賜物を妬まないなら、自分が持たないものをも他者と共有することになるでしょう。私が兄弟の持つ全ての賜物を妬まず、兄弟を愛するなら、それらすべての賜物は私のものとなります。つまり、私がそれらを、私の自身の中にではなく、兄弟の中に持つことになるのです。私たちが一人の頭である主のもとで、一つの体とされていなければ、それらの賜物は私のものとはならないでしょう。…愛こそが、キリストの体において、体の各部を健康な状態に保つのです。」

  何と素晴らしい洞察ででしょう。こういう教会に大山教会が益々なることを願いましょう。

  私は本当に皆さんを、「私の冠である愛する人たち」であることを嬉しく思います。今日は何だか、永遠のお別れみたいな、遺言めいた話になって申し訳ございません。

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  最後に、パウロは1章27節で、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と勧めます。そうすれば、「あなた方が一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて、福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と書きます。そして更に続けて、「あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と書きます。

  パウロは、フィリピの人たちを、キリストの同労者と見なし、戦友と考え、心を合わせて戦う者と考えています。だからこそ、彼らを「私の喜びであり、冠である愛する人たち」と、美しい冠、花のかぐわしい冠、永遠の変わることのない金の冠のような人たちと呼んでいるのです。

  このような信仰の友を持った人々、信仰の共同体を持った人は何と幸いなことでしょう。彼らの後姿を見るだけで、慰められ、力を与えられるでしょう。彼らがそこにいるだけで十分福音の力になるでしょう。

  彼らの姿に、キリストが留まっているからです。たとえ闇のような試練が神の光を隠し、闇に圧倒されても、彼らのところにキリストが来て、目に見えなくても留まっておられるからです。

  パウロ自身がそうでした。獄中にあり、処刑人の足音が近づきつつあるにも拘らず、彼にキリストが共におられることが兵営全体に広まりました。全く光を欠く暗黒の獄舎で、彼を通して福音が光を放ち、前進しました。それは光が見えない中なのに、そこにキリストが来て下さっていることが実際に起っていたからです。

  振り返れば、フィリピの人たちにとっても、パウロこそ自分たちの「喜びであり、冠である愛する人たち」であったでしょう。

  それはパウロが、十字架に赴かれたイエスが茨の冠をかぶせられながら、父なる神への歩みをたどって十字架という玉座に座り、王の王、主の主としてそこに着かれた方を大胆に崇めたからです。主は茨の冠をかぶせられて磔にされました。だが、その荊冠のキリストはパウロにとっての誇りであり、「喜びであり、冠である愛する」方であったからです。

  パウロは最後に、「このように、主によってしっかりと立ちなさい」と温かく勧めます。私たちもこの温かい勧めを覚えながら日々の生活をして行きましょう。

          (完) 
  
                                    2010年1月24日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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