私の冠である人たち (上)


トゥーンの川ではカヤックの国際大会をしていました。舟ごと水に潜ったり、背後に倒れたり、倒立したり色んな演技が披露されました。本番は観衆でびっしり埋め尽くされました。日本からの参加もありました。順位は…
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                                              私の冠である人たち (上)
                                              フィリピ4章1節

                                 (序)
  パウロとフィリピの信徒たちの関係について、一年前ですが、1章のところで申し上げました。獄中のパウロは彼らを誇りとしていました。彼らを思い起こすたびに、神に感謝をささげ、喜びをもって祈っていたことが分かります。

  私は大山教会にまいりまして、何故か、礼拝に集う皆さんが身近に感じられます。小さい教会で、一体感があふれているからかも知れません。そうです、前の教会では前列の方がいまEさんが座っておられる所位ですから余りに離れていました。或いは、お年を召した方始め、皆さんが活き活きして、元気でいらっしゃるからかも知れません。

  何より喜びなのは、皆さんのお名前を、毎日キリストの前に持ち出して祈る時です。気のあう人だけ祈って、嫌な人は飛ばすんじゃあありませんよ。全員です。教会員だけなく、客員の方も、求道者中の方、また教会に数回来られた方もここに書いていて、お名前を主のみ前に持ち出し、お仕事やお家のこと、健康のことその他、色々気づくことを神様に持ち出して祈ります。これが、皆さんを身近に感じる原因かも知れません。

  いずれにしろパウロが一章で、「私は、あなた方のことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と書く彼の信仰のあり方は、私たちに信仰生活のあり方をよく教えてくれます。

                                 (1)
  さてこの4章1節ですが、結論を言えば、この短い言葉に、フィリピの信徒たちを思うパウロの気持ちが実に良く出ています。彼がこの手紙で一番語りたいこと、その要約めいた所があります。ですから、フィリピ書全体のあちこちを思い出させてくれます。

  先ず、「私が愛し、慕っている兄弟たち…」と言いますが、パウロは何を、どう愛したのでしょう。

  この「愛」という言葉は、アガペーという言葉です。彼は1章8節で、「私が、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」と書きましたが、ここから彼の愛の熱意、純粋さが分かります。「慕う」とは、心に深く留めること、また、しきりに会いたがることも指します。

  では、「私が愛し、慕っている」とは具体的にはどう愛し、どう慕うのでしょう。

  実は先日から帯状疱疹になって、今酷(ひど)い痛みを抱えています。昨晩、妻が病院に電話して入院の交渉をしてくれました。ベッドがどこにも空いておらず自宅待機になったので、こうしてご一緒に礼拝の恵みに与れました。明日は入院かも知れませんが、こうなったのも感謝です。それはそうとして、電話に出た先生は驚くほど親切でした。何故これほど親切に思いやってくれるのか、心から感謝しました。東京にこんな方がいるとは思いませんでした。ところが、暫くして向うから電話を下さのです。見も知らない当直医からお電話を下さるって、こんなことってあるでしょうか。症状を別の視点から確かめて下さるためでした。心の中で、ヘッ!こんなに患者の身になって考えてくれる素晴らしい先生がおられるのだ!!と思って、その病院への信頼度が急上昇しました。患者の心配を少しでも和らげたい気持ちが伝わりました。当直の女医さんでしたが、この思い出になるいい印象をいつまでも胸に暖めて置くために、お顔は見ないで遠くから敬わせて頂きたいと思っています。愛を感じたんですね。

  横道に逸れましたが、パウロはどう「愛し、慕った」のかと言うと、例えば2章12節で、「私の愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、いない今は、なおさら従順でいて、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めています。

  パウロは、愛するフィリピの人たちの心をキリストへと向けさせるのです。「恐れおののきつつ、救いの達成に努めなさい。」彼らの中にキリストの道を整えることによって愛したのです。

  3章8節では、「イエス・キリストを知ることの余りの素晴らしさ」を示して、フィリピの人たちも、「他の一切を損失とみなす」あり方へ、キリストの栄光を輝かす道へ導こうとしました。

  1章29節では、「キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と語って、苦しみを避けない信仰の道、いや、苦しみを賛美の機会にすることをも教えます。

  その他、他の手紙に書かれるフィリピ教会の姿は、「極度の貧しさ」を経験しているにも関わらず、信仰の喜びが溢れ出て、「人に惜しまず施す豊かさとなった」とあります。パウロはフィリピの人たちを、イエスのように、他者を思いやる真実な生き方へと導きました。それがパウロの愛でした。

  パウロ自身が、「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然と崇められるように」と切に願っていますが、フィリピの人たちも、そのように生きて欲しいのです。それが自分が与えうる最大のものだと考えるのです。

  キルケゴールは、「ある人が神を愛するようになる為に援助を惜しまぬこと。それをその人を愛するといいます。神を愛するように、誰か他の人から助けられること。それを人から愛せられると言います」と書いています。まさにこれが、パウロが、私の「愛し、慕っている兄弟たち」という言葉で語っているパウロの心です。

  繰返しますが、人々の中に福音が前進すること、「邪まな曲がった時代の只中で、非の打ちどころのない神の子として」生き、「命の言葉をしっかり保つ」ように、彼らのために奮闘しているのが、パウロの愛の内容です。

                                 (2)
  そうした中でパウロは、フィリピの信徒たちの信仰の純粋さ、逞しさ、一途さを愛し、それを慕ってもいたでしょう。即ち、パウロもフィリピの人たちに惹かれていたでしょう。

  どんなに偉大な人物、また素晴らしい伝道者であっても、同信の友の純粋な姿に励まされ、気を取り直したり、気づかなかった気づきも与えられて、新しい歩みを始めたりするからです。

  信仰を長く続ける中で、私たちはもはや先輩も後輩もなく、牧師も信徒もなく、皆同じ兄弟姉妹、同信の友であり、同じ道を行く旅人、戦友、同志となります。パウロとフィリピの信徒の交わりは、相互にあい慕い合うものになっていたに違いありません。

  このようにして、パウロは次に、「私の喜びであり、冠である愛する人たち」と呼びます。煩わしいのでいちいち章節を申しませんが、この手紙でパウロは、幾度にもわたってフィリピの人たちを、「私の喜びである」と語っています。また、あなた方の為に「喜びをもって祈っている」書き、「あなたがた一同と共に喜びます」と述べ、「私と一緒に喜びなさい」と語ります。また、「主において喜びなさい。重ねて言うが喜びなさい」と勧めたりもしています。

  喜びという言葉は、ギリシャ語で字義どおり、「喜び、喜悦、歓喜、また愉快さ」を指します。

  パウロにとってフィリピの人たちは、暗い独房で思い出すたびに嬉しさが生まれ、その人たちの顔を思い浮かべると喜びが湧き上がったのではないでしょうか。喜びと共に元気になり、彼らとの真剣な出会いの時と共に、彼らと過した愉快な時も目の前に浮かんだかも知れません。

  キリスト教の長い歴史の中に、私たちは国籍も民族も言葉も時代も違いますが、主にある素晴らしい兄弟や姉妹を持っています。これらは皆同じ天に国籍を持つ私たちの友、仲間、慕わしい同信の者です。

  その一人はこう言っています。私たちの交わりは、中心を持った一つの大きな円のようなものです。私たちはそれぞれ円周の上にいます。そして、私たちはそれぞれ、円の中心であるキリストに向かって歩きます。すると、主に近づけば近づくほど、私たち同士も近く、親密になります。

  私たち同士が近づくことによって親密になるというのでなく、主に向かって進む時に、互いに近づくのです。主が近づかせて下さるのです。

  パウロとフィリピの信徒たちの関係は、互いにキリストを中心とするそんな親密な交わりを持っていたのでしょう。

           (つづく)

                                    2010年1月24日


                                     板橋大山教会   上垣 勝

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