日々、自分の十字架を負う (下)


                           トゥーン城を出て教会に下る道
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                                            日々、自分の十字架を負う (下)
                                            ルカ9章23-25節

  
                                 (2)
  イエスは、「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われます。

  自分の十字架から逃げ出さず、日々、十字架と取り組みつつ私に従いなさいとおっしゃるのです。自分の十字架をごまかして打っちゃっていては、伸びる芽も育たないということです。反対に、十字架を負うことであなたの力が発揮される。あなたの十字架、そこが、あなたがあなたらしくなる場所であり、それ以外にあなたの力が最大に発揮される場所はないということです。

  捨てるのは、真に命を救うためです。

  「自分の十字架」ですから、イエスと同じく、その十字架の上で磔(はりつけ)にされる可能性もあります。だから誰しも、自分の十字架の前で戸惑い、ためらい、おじけるのは当然です。

  では、イエスは何故、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われるのでしょう。それは、共にいてくださるからです。決して、あなたを見捨てないからです。私がいるから、不安や恐れ、思い煩い、取り越し苦労、悲観的になるのはやめなさいと言われるのです。

  12日にハイチの首都で巨大地震が起りました。空港が潰れ、港が潰れ、大統領府も政府機関の建物も国連の平和維持軍の建物も潰れ、国が機能しなくなりました。大変な惨状です。色々が壊滅して、この国にアクセスするのが非常に困難で、すでに72時間が過ぎても支援できず心配です。

  ハイチは、国民の8割が一日200円以下で生活しています。半数が一日100円以下です。今日の私の朝食は粗食を大急ぎで食べましたが、いや、それを妻に言っちゃあまずいです…でも100円以上でしょう。首都のポルト・プランスの丘には見渡す限りスラムが広がっているそうです。西半球で最も貧しい国、世界が見捨てた国と言ってもいいでしょう。改めて、その国に住む人への同情を禁じえません。ただでも生活が行き詰っている所への大災害です。

  日本は報道していませんが、オバマ大統領は直ちに、「あなた方は決して見捨てられない。あなた方を見放さない」と語りました。「私たちはあなた方のそばにいる。あなた方の傍らにいる」という声明でした。ハイチの人を励ましたに違いありません。この激励は世界の人たちが共有したいと考えていると思います。(日本では生憎の小沢問題もあって、ハイチ報道の取り扱いが小さ過ぎます。本当だったら一面のトップ記事が数日続くほどの出来事です。)

  イエスは、私はあなたと共にいる。あなたを見捨てない、見放さない。恐れるな。だから「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われるのです。神に信頼することによって歩みが支えられ、勇気を出し、前進できるからです。イエスがおられることを信じ、嫌なことも含め自分の困難や十字架を負う時、神の栄光に照らされて自分の最も深い所にある自分自身になっていくのです。

  いつかテレビで、顔の半分に大きな痣(あざ)がある女性が出ていました。その十字架を受け入れるのは大変困難だったようです。うろ覚えですが、中学、高校生の感じやすい時期また社会人になっても、家に閉じこもる年月が続いたようです。だが、そのマイナスを引き受けた時、自分が変わったそうです。痣を持つ自分に自信を持てたのです。そして今、学校の子どもたちの前で劣等感をどう引き受けるかを話したり、全国の同じように痣がある人たちを励ましているという事でした。私は、その方の、人々を励ます姿を、涙なしには見ることができませんでした。

                                 (3)
  イエスは弟子たちを、生ぬるい生き方や怠惰な態度で生きるために招かれたのではありません。むしろ、力を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、真実に主に従うことです。イエスご自身、世界の最も暗い夜に、ただ一人光を掲げ、炎を燃やされました。弟子たちの使命は、世界の最も暗いところに光が届いていること、希望の主が来ておられることを証しする事ですから、「弟子の覚悟」が必要です。

  「日々、自分の十字架を背負って」と言われるのが、そのことです。イエスご自身が十字架を負われましたが、イエスに従う者たちも、試練と困難に日々直面することを知っておられるからでしょう。それで、イエスが神の福音のためにチャレンジして行かれたように、私たちも福音のために試練を恐れず、自分を思い切って与えていくように勇気づけられるのです。

  「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」と語られます。

  自分のために沢山持とうとする時、人はその執着によって自分を失って行きがちです。自分の命を救おう、救おうと自分中心に生きて、自分に執着しているうちに護身的になり、自身が持つ良いものも、幼子の心も、生きる喜びも失っていくことがあります。保守的になり、心の門扉を閉ざして自分の内側を見せなくなります。現代人の心の病の多くは、神に信頼しないために、人も信頼できず、自分の心の門扉を開けられない所から来ています。自分の命を失えない、捨て得ないのです。

  反対に、すっかり神に明け渡せばそこから新しい道が拓けますが、その明け渡しが出来ない。

  「自分の命を救いたい。」そこが思い煩いの起る出発点です。命を捨てる時、心は単純になり、肩の荷が取れ、身が軽くなります。するとイライラも弱くなり、私が私らしくなっていくのです。

  イエスはその事を深めて、「私のために命を失う者は、それを救う」と言われます。イエス・キリスト、神、真理、自分と人類を超える存在。その方に向かって生き、その方のために命を用いる時、私たちの命は生き生きして来るでしょう。何故なら、私たちの命が、自分を越えた大きな存在、永遠なる神のために役立つからです。金儲けや出世ではない、真理のための使命が見えて来るからです。

  心が単純になり、本当のものに向かって命を使うことで、自分が輝くからです。

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  「私のために命を失う者は、それを救うのである。」イエスは十字架で命を失われました。だが3日目に復活されました。

  イエスのみ後に従う時、使徒たちの時代にそうであったように、時代の潮流に逆らわなければならないことがあるかも知れません。或いは、イエスがそうであられたように、今の時代の「反対のしるし」になるかも知れません。その時には、自分の面目をなくすのを恐れたり、安全が脅かされるのを恐れたり、私たちは様々な障害の前で引き返したくなることがあるかも知れません。

  だがイエスは試練を受けても、それを被害者的に苦しまれませんでした。むしろそのような中でも、積極的に生きられました。罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりましたとさえあります。また最後の晩餐では、「これは私の体」「これは私の血」と語って、そのすぐ後、十字架の前から逃げていく弟子たちのために予めその罪を赦し、彼らがやがて立ち直れるために、贖いのしるしとしてパンとぶどう酒を配られました。

  イエスに従う時、失うものもあるでしょう。衝突が起ったり苦しみが待っていたりするかも知れません。だが、その報いは百倍になって返って来るとおっしゃいました。

  自分を捨ててイエスについて行くとは、イエスに自分の根拠を置くこと、神に根拠を置いてそこから逃げないことです。自分の正体を隠さず自分のアイデンティティを明確にして生きることです。

  ここに、自分の身を滅ぼしたり失ったりせず、真に命を実現し救う道があります。

       (完)

                                   2010年1月17日

 
                                     板橋大山教会   上垣 勝

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