日々、自分の十字架を負う (上)
トゥーンのお城からの眺めは素晴らしいです。1時間いても見飽きませんでした。
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日々、自分の十字架を負う (上)
ルカ9章23-25節
(序)
イエスの弟子は12人です。今日の9章の初めにその12弟子が呼び集められたことが書かれています。しかし、次の10章には、72人の弟子たちが出て来て、町や村に2人ずつ派遣されています。彼らは喜びをもって帰って来てイエスに報告したとあります。しかしまた8章1節以下を見ると、イエスに従ったのは男性だけでなく、女性たちもいて、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。イエスの弟子は一色でなく多様な者を含んでいたということです。この人たちは、「悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち」であったとあります。
このようにイエスの弟子たちは、キリストに出会い、愛され、人々に対するイエスの真剣な愛を目のあたりにし、キリストの生き様に深く関わった人たちでした。そしてイエスに触発されて、自分もイエスのように生きたいと願ったことは、想像に難くありません。ですから、今日の所で、またこの章の最後の箇所で、小見出しにあるように「弟子の覚悟」を語られたのは当然のことでしょう。
これらの弟子たちは、イエス様の公生涯を通して従い、町から町へ、村から村へと説いて行かれる、教えを聞きながら従いました。その何人かは、イエスの十字架と死の最後まで従い続けました。長期間一緒にいた人もあったでしょうが、短期間だけしかおれない人もありました。しかし、イエスは一人ひとりの自由な選択に任せられました。
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しかし、イエスが12弟子として選び、イエスと行動を共にした人たちには、イエスの招きは決して曖昧ではありません。徹底したものでした。非人間的なものではありませんが、弟子の覚悟を自覚させるものでした。地の塩、世の光として彼らが遣わされるのですから当然でしょう。それが今日の所に出ています。
イエスはご自分の苦難と復活を予告された後、皆に言われました。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」イエスは自発的な自由な服従を求められます。その服従に、一人ひとりの尊重があります。そのような中でイエスは、「自分を捨てる」ことを要求されたのです。
これは現代人には非常に難しい要求に聞こえます。現代人は自我が確立することを望みます。自己主張できる人間であるのが、教育目標になっています。人に仕えること、服従することは余り教えられず、それは時代遅れの考えのように受け取られています。ところがイエスは、「自分を捨て」て、「私に従いなさい」と命じられたのです。
しかし考えてみてください。自動車教習所に行きながら、実技の指導員に従わないで自分勝手に動かしていても上達しません。自己流を捨て、実技の指導員に服従しなければなりません。ましてや飛行機のパイロットとなると、指導教官に従わないなら墜落事故を起こすでしょう。
ただ、ここで注意しなければならないのは、イエスは25節で、「自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」と言っておられることです。イエスは、自分を否定しなさいと語っていらっしゃるのではありません。
「自分を捨て」とは、自分らしさの否定ではありません。自分を出してはならないという事でもありません。反対に、「自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得があろうか」というのがイエスの勧めです。
ある種の宗教は、洗脳することによって教祖に絶対的な服従を求めます。批判力をそぎロボットのように従わせるのです。北海道選出の石川議員は小沢幹事長には絶対服従、批判力を持たなかったようです。小沢さんを裏切ったら自殺以外にないとまで、服従は絶対だったようです。イエスの求めはそういうものではありません。むしろ弟子であることによって、自分らしさを十分発揮させるものです。弟子たちはイエスを裏切りましたが、挫折の後、再起させる力を持っておられました。
イエスがおっしゃるのは、イエスの命に対立し、その教えに逆らうあなたの部分を捨てよということです。伸び放題の枝を剪定しなさいということです。先ほどの25節は、「自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得があろうか」と言われています。イエスに従うことによって、私たちが真の自己を発見するように招いておられるのです。
(つづく)
2010年1月17日
板橋大山教会 上垣 勝
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