腹違いの妹から救いの手が伸びた


グリンデルバルト村の一番底を流れる川は、一年中白濁した急流。氷河が解けて川となっているので、何万年も澄んだことはありません。
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                              葬 儀 説 教
  
                                 焦点があっていく人生 (上)
                                 聖書:「私の好きな16の聖句」(省略)より


                                 (1)
  私たちは誰も、人の人となりを、その人格すべて知ることはできません。全知全能でない私たちは、その一部しか知らないということを肝に銘じなければなりませんが、それは幸いなことでもあります。

  1月5日に主のもとに召されたAさんのことを少し申し上げますが、それは無論、Aさんの全貌でなくごく一部ですし、しかも間違っているかも知れません。そもそも、私たちは自分自身のこともよく分かっていない所があります。しかしまた、未知の所があってよいのでないでしょうか。未知だから、新しい発見があると面白いし、生きる喜びや驚きもあると思います。

  Aさんは、丁度去年の今頃、ここに印刷した「私の好きな16の聖句」を選ばれました。教会の50周年記念冊子の原稿としてお選びになったものです。私は教会員全員に文章をお願いしたのですが、Aさんは聖書の言葉を16箇所選んで、何のコメントも書かず私に渡されたのです。私は皆さんに、文章を書いてくださいと言ったのですが、磯崎さんは当然のごとく聖書だけを選んで渡されました。私は、どうしてですかと喉まで出かかったのですが、待てよ、これは16の聖句を一つ一つ深めて自分の言葉で書き表すのは難しいし、ページ数にも限りがあるので、聖句だけを書かれたのでないかと理解して、これを記念の冊子に掲載しました。

                                 (2)
  Aさんは、1931年(昭和6年)2月17日に墨田区向島にお生まれになり、昨年秋から頭部のリンパ腫を患って入院され、5日に78歳で召されました。

  カバンや柳行李(こうり)を商うお店の9人兄弟妹の次男としてお生まれになりました。だが生まれつき心臓が弱く、小さい頃から医者通いの日が多かったそうです。心臓に穴が開いていたからです。その関係もあって能力は十分おありでしたが、小学校しか出られませんでした。

  戦争が終るのが14歳ですから、暗雲の垂れ込める世相の中の多感な少年期、そして戦後の困難な時代の青年期を過されました。体の弱さがあれば、戦争にいけない人間は人間でないという時代ですから、劣等感も口惜しさも植え付けられたのでないかと想像します。

  ここにおられる皆さんにもご経験された方がおいででしょうが、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼け出されました。当時、お父さんは警防団の部長をしておられて疎開できないうちに被災されたようです。14歳のAさんは、妹さんをおぶって、大火が起って頭上から降って来る火の粉を払い、前の人の服に着いた火の粉を避けて必死に逃げたことを、いつかありありと話されたことがありました。普段は衛兵がいて一般人は決して入れないところに、高い塀を乗り越えて入って、家族全員は助かったとも言っておられました。

  その体験からでしょう。「戦争はイヤだ」、「2度と戦争はしちゃあならない」と、本気で言っておられました。5年ほどで10回以上は聞きました。「戦争はイヤだ。」これは日本人が経験した非常に大事な遺産です。これは次の世代に、その次の世代に引き継いでいくべき国民的な大切な財産だと思います。

  それで疎開し、戦後3年間ほど春日部で農家の手伝いをし、それから押上に戻られました。その後、仕事を転々とし、コクヨは長くお勤めでしたが、若いころは何回も変わられたようで、「自分から嫌になってやめた」と書かれたものもありますが、そのような若い頃の苦い経験をお持ちだったようです。

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  私はI さんの5年間しか知りませんが、よく口になさったのは、「あの人は読書家で、聖書を熱心に勉強していた」ということでした。あの人とは、むろん奥さんのNさんです。今、自分がこうしてあるのは、「家内がいてくれたからだ」とも言っておられました。また、いつも奥さんの写真を持っていて、私たちによく見せられました。殆ど肌身離さなかったんでないかと思います。晩年は、奥さんを慕って、すっかり尊敬しておられましたね。

  昔は、殆どアル中みたいで、お酒を浴びるほど飲んだそうです。好きなことをして生きて来たという事も昔はあったようです。しかし晩年のI さんは、穏やかで、温かい心を持った、トゲのない方でした。今回、若い人たちから電話を頂いて、どちらの会にも行けなくて残念ですと言われました。また、告別式に出れないので会いに来ましたと、子連れで会いに来た方もあります。I さんは若い人たちから慕われていました。

  確かに、人生の一番大事なものに心が向きそこに心が絞られていった晩年のI さんがあるのは、Nさんがおられたからでしょう。

  お2人が結婚されたのは27、8歳ですが、悲劇も危機も伴うあるドラマチックな出会いから結ばれたと聞いています。しかしこのご家庭に変化が始まったのは、奥様が43歳で初めてこの教会に足を踏み入れ、翌年の1974年に洗礼をお受けになったことでしょう。きっかけは、義理の妹さんに勧められたからです。

  書き物によれば、お父さんが再婚し、後ではそうでなくなったようですが義理のお母さんと馬が合わず、家を出たいがために結婚した。で、当然でしょうが、結婚は破局を迎えます。そして再婚、息子さんの誕生とつながりますが、その後の人生を決する救いの手は、腹違いの妹さんから伸びて来たのです。もし父親が再婚せず、腹違いの妹さんが生まれなかったら、馬が合わないと思った義理の母がいなかったら、I さんたちはどうなっていただろうかと思わされます。

  先ほどの「私の好きな16の聖句」に、「神が全ての事を働かせて益として下さる事を、私たちは知っています」とあるのは、このことです。父の再婚、義母のこと、飛び出すように家を出た結婚、離婚、I さんとの再婚、この妹さん。神は、これら一切を、あい働きて益としてくださったのです。Nさんは劣等感がひどかったと書いておられますが、その事さえ用いられました。

  そしてI さんがこの聖句を選んでおられるのも、人生を長く生き、人生の曲折を経験し、イエス様と出会う中で、神は万事を益として下さるという、真理の一端に触れていかれたからでしょう。
  
          (つづく)

                                 2010年1月8日

  
                                     板橋大山教会   上垣 勝

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