中国人牧師の発見


                      グルンデルバルト村の低地グルントに立つ道標。
                                ・  ・  
  
  
  
                                              国籍は天にあり (下)
                                              フィリピ3章17-21節
  
  
  
                                 (3)
  ところで、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い。彼らの行き着くところは滅びです」とありました。これはどういうことでしょう。

  ただパウロは、彼らは「滅びよ」と言っていません。「滅びよ」と言うのと、「その行き着くところは滅びです」と言うのとでは大違いです。パウロは、そういうことをしていると最後は滅びですよと忠告しているのです。愛から出た忠告です。どうしてわが子が危険な火遊びをしているのに、忠告し、警告し、叱らない親があるでしょうか。わが子を思えばきつく叱ることも、叩いて叱ることもある筈です。それは愛の真実から出たものです。

                                 (4)
  私は今回、「私たちの国籍は天にあり」ということで、新しく教えられることがありました。それは、「私の国籍は天にあり」と考えやすいのですが、パウロは「私たちの」と言っていることです。「私たちの国籍」と言っているのは、私たちキリスト者は皆、同じ国籍を有しているということです。どの教派の人も、プロテスタントカトリックギリシャ正教も、異端でない限り、私たちは皆キリストを頭とする同一の民であるということです。

  中国のことになりますが、中国は戦後、信仰の長い非常に厳しい試練の時期がありました。先週の続きになりますが、テゼのブラザー・アロイスさんがポーランドの極寒の小都市に5日間集まった3万の青年たちに話したのは、中国で出会った80歳のプロテスタントの牧師のことでした。

  中国は、戦後全ての教会活動が禁止されました。多くの牧師、神父、司祭が投獄されました。捕えられたある司教は、中国から全ての宗教は姿を消すだろうと思ったそうです。日本のキリシタン弾圧のように、何百年後かに宣教師がやって来てやっと信仰が甦るに違いないと思ったそうです。それ程の厳しさだったようです。

  ただ、日本のキリシタン弾圧の方が厳しかったです。5人組制度とか、宗門改めとか、互いにキリシタンを厳しく監視するための制度が敷かれたわけで、それでキリシタンは根絶されました。いや、それでも実際は根絶出来なかったんですが。

  パウロも獄中生活を何度かし、この手紙は獄中から書いていますが、その80歳の牧師は、信仰を捨てぬゆえに、何と27年間も強制収容所に入れられました。20代に入れられ50代になって釈放されたのです。ミャンマーのアウン・サン・スーキーさんは軟禁されて非常に長く、国際問題になっていますが、それでも今10年ほどです。27年とは、気が遠くなるほどの長さです。

  最初は刑務所に入れられ、次に遠く流刑になりました。ところでその強制収容所では、他の教派のキリスト者と一緒にされ、牧師も監督も神父も司教もあらゆる教派のキリスト者が一緒になったのです。

  この人はそのようなことを話した後、そこで立ち上がって、「私が経験したのは、教会がすっかりなくなり、存在するのはキリストのただ一つの体のみがあるという事だった。キリストにおいて、私たちは一つに結ばれている。そのことを知りました」と語ったと言うのです。

  中国から、目に見える教会がすっかりなくなった時、目に見えざる一つの教会が存在しているのを知ったと語っているのです。

  「私たちの国籍は天にあり」とは、私たちキリスト者は、すべて天国の同じ国籍を持つ人間であり、母国は同じ、同一の民であるというのです。それがプロテスタントカトリックと分立していては、神の国の意向と違うということです。私たちのキリスト教会は、全ての教派を越えてただ一つであるということです。

  これは大変考えさせられる発言です。素晴らしい大発見です。地上の見える教会が、迫害と弾圧によって存在しなくなった時に、目に見えざる唯一つの神の教会があるということを、神様が明らかにして下さったとは、何と驚くべきことでしょう。教会が非常に厳しい試練を受けたときに、それまで地上の事柄、即ち教派間の縄張りその他で目がくらんで分かりにくくなっていた事柄が、明らかにされていったのです。これは神様のみ業と言わないで何と言えるでしょう。

  これは神のなされたことです。世界の教会への新しい啓示と言っていいでしょう。中国では、この様な教会の新しい発見がなされているのです。もしかすると、これは教会の新しい覚醒になるかもしれません。ブラザー・アロイスさんはイザヤ書55章を引いておられました。「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なる」という言葉です。

  教会と言えど、人間が神の思いを曲げている場合がある。だがそんなことがあっても、神は人の企てを越えてこの世に介入されるのです。歴史の主なる神とはそういうことです。神はその御心を、エッ、そんな所でというような場所から現されることがありますが、この中国人牧師に神のみ心を表わされたと思います。

  このことを真面目に考えるなら、教派が互いに分かれていることは、もしかしたら「十字架に敵対」することにならないか。キリストを再び十字架につけることにならないか、ということです。教会はとんでもない間違いをしているのでないかということです。人間の考えを先行させ、神の心を塞(ふさ)いでいるのでないかということです。

  また、このことを身近なところで考えるなら、この教会に集まっている私たち全ても当然、「私たちの国籍は天にあり」ですから、私たちはキリストを頭にした一つの群れ、一つの家族であることを、もっともっと感謝し、喜び、そのことを意識して生きるべきでないかということです。

  パウロが2章で、「心を合わせ、思いを一つにし」と勧め、「何事も利己心や虚栄心からするのでなく、へりくだって」と語り、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と語ったのはこのことです。

  「国籍は天にあり。」キリスト者の焦点はここにあります。ここに私たちの歩みの焦点を合わせて行くとき、心に平和が訪れ、喜びの泉が開いて、涸れることのない命の泉が流れ始めるでしょう。

  私たちの「国籍は天にある」のです。今から後、今日という一日を、神が本国からお授けくださった一日として、感謝して受け取って行きたいと思います。また、どういう状況に置かれても、私たちの国籍は天にあるという喜びのメッセージを心に温めて、励ましを受けて行きましょう。

  散歩に出ますと、もう梅の花が一輪か二輪か咲き始めています。春の小さい兆しが微(かす)かに認められます。ですから、「国籍は天にあり」というこの小さな言葉にも、目に見えぬ神の確かな気配を感じ取って行きたいと思います。

         (完)

                              2010年1月10日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/