天国の市民権を持つ


3573mのユングフラウ・ヨッホに登ってもインド人はインド人。ロンドンに住む仲のいいインド人夫婦のお弁当はやっぱりカレー味でした。
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                                              国籍は天にあり (上)
                                              フィリピ3章17-21節


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  まさか、こんなに早くI さんが召されるとは誰も思いませんでした。むろん、それを予知して「国籍は天にあり」という題をつけたわけではありませんし、一人の友が私たちの間からいなくなった事に淋しさを禁じえません。

  さて今日の所に、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」とありました。ある英訳は、「キリストの十字架に敵対するかのように振舞っている者が多い」と、少し幅を持たせた訳になっています。

  恐らくパウロは、2章6-8節で書いたことを思い出しながらここを書いているのでしょう。そこで彼は、キリストは神の身分であられたが、神と等しい者であることに固守せず、自分を無にし、僕の身分になり、人間と同じ者になり、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書きました。ところが、このキリストの十字架に象徴される生き方に、敵対するかのように生きている人が多いと言っているのです。

  敵対するとは具体的にはどういうことかというと、2章1-5節に書いたことです。すなわち、心を合わせ、思いを一つにするのではなく、利己心や虚栄心でする。へりくだらない。相手を自分よりも優れた者としない。自分のことだけを考え、他人のことに注意を払わない。そういう、自分の腹を神とするようなあり方です。そのことを19節で、「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と書いています。

  また、「彼らの行きつくところは滅びです。」彼らは滅びに向かっていると書くのです。この「彼ら」とは、一般の人たちでなく、3章の初めや1章17節に出てくるような、キリスト者でありながら、キリストの十字架に象徴されるあり方に反対し、それに敵対して生きる人たちです。低くなるのでなく、反対に尊大で、利己的で、十字架につけられたキリストを再び十字架につけるようなあり方で歩んでいるのです。

  パウロは、信仰の実際のあり方を問題にします。17節で、「私に倣う者となりなさい」とか、「私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と語るのも、信仰の具体的生活を指し示すためです。

  キリストは世に来て受肉し、肉の姿を取られました。であれば、信仰も肉を取り、実際生活に受肉することが大事です。

  「模範」とありますが、私たちは自分の信仰の模範となる人、導いてくれる人を持つのはとても大事です。だが現実の身近な人間は、しばしば途中までしか導いてくれません。躓(つまず)きを与えることさえあります。ですが、優れた信仰の先輩たちを持ち、彼らが書いた書物に養われるのは極めて大事です。私はこれまで、信仰が分からなくなると、いつもカール・バルトの書物や遠くはアウグスチヌス、またルター、パスカルなどの書物を引っ張り出して来ました。また、多くの神学書はそのためにありました。最近は、テゼのブラザー・ロジェさんやブラザー・アロイスさんのものもそれらに加わっています。私はこれらの人を、私と共に歩んでくれる信仰の友だと思っています。ある人は、信仰の「聖人がいなければ、インスピレーションを与えない、鈍い人になってしまう」と書いていますが、そういうこともあるでしょう。

  パウロが、「私に倣う者となりなさい。…私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と語るのは、ちょっと自信過剰に聞こえるかも知れませんが、初代教会の中に、キリスト教信仰が具体的な生き方になって根づくために、これは適切だったと思います。

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  さてパウロは、十字架に敵対して歩む人たちの思いは地上のことだが、反対に、「私たちの本国は天にあります」と語りました。前の訳は、「私たちの国籍は天にある」となっていました。地上の利害に執着する生き方と、天に目を向ける生き方を対照的に描いたわけです。英語の聖書では、「私たちは天国の市民である」とか、「私たちの国家は天にあり」、また「私たちの母国は天にあり」などと訳されています。

  「母国」と言えば生まれた国、もとの国です。古里や故郷の国です。いずれにしろ、そこに私たちの真の国籍があり、地上では旅人、寄留者であるという意味です。これらは、私たちが何を根源にし、何を出発点にして生きるものかを語っています。

  パウロはこの言葉を、晴れ晴れした口調で語っています。「国籍は天にあり。」そこに私たちの名が刻まれている。彼は、青く晴れ渡った晴朗な気持ちをもって語っています。彼はローマ書で、私はユダヤ人にもギリシャ人に対しても、「福音を恥としない」と書きました。その時も日本晴れのような晴朗な気持ちで、誇らしく語りました。それと同じく、ここには何者にも恥じない、キリスト者魂(だましい)が脈々と脈打っています。彼は、天に国籍を持つ者、天国の市民として、喜びをもって地上を生きたのです。彼はこの時獄中にありましたが、それは天国の市民として獄中にあり、その市民である喜びを持ってこの書簡を書いています。

  I さんが召されて、奥さんのNさんのことも知る機会を与えられ感謝でした。Nさんはこう書いておられます。要約すると、「命が終ったら献体する。棺桶は要らない。家族と牧師の祈りだけでいい。骨は散骨を希望。告別式を行なったと思って、その分の費用はすべて献金する。私は息子にそのことを言っておきます。」

  キリストを慕う思いが、この様な形で煮詰められたのだと思います。この様なあり方を全ての人が持つべきだと思いませんが、こういう信仰もあっていい、と思います。「国籍は天にあり」、「私は天国の市民である」という事を、率直に表現して行こうとされたのでしょう。

  さて、続いてパウロは、「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っている。キリストは万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と言います。

  私たちは自分を振り返ると、罪との戦いに敗北を重ねているかも知れません。信仰に生きようと思うのですが、うまく行かない。連戦連勝でなく、連敗に次ぐ連敗。私は中学時代に、図画の先生とバレーボール部をつくりました。部員を集めて練習を重ねた後、対外試合に行きました。ところが連敗に次ぐ連敗。卒業するまで勝ったためしがありませんでしたね。自分の性格や癖を克服しようとするのですが敗北する。「こんなクリスチャンなら、やめちまえ」と言う声さえ内側から聞こえる。だが、いかに敗北続きの人生であっても、万物を支配下に置かれるキリストが、私たちの「卑しい体」を「栄光の体に変えてくださる」のです。キリストが私の罪と弱さに確実に勝利して下さる。

  この様なキリストを熱く慕う思いを、Nさんは強く持っておられたに違いないと思います。

       (つづく)

                               2010年1月10日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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