聖書は地球家族の中で読め


  スイス・アルプスのアイガー・グレッチャー駅からクライネ・シャイデックに降る山歩きは素敵でした
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                                              鷲のように翼を張って (下)
                                              イザヤ40章27-31節
  

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  なぜ、ブラザー・アロイスさんのような発言が生まれるのでしょうか。それは、聖書がそう語るからです。コリント前書に、「体は一つでも、多くの部分からなり」立っているとあります。また、体の「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶ」とあります。この言葉を地球家族という、世界的な規模で読んでいるのです。

  聖書を地球家族というコンテキストで読めば、同時代の人々は、国も、国籍も、言葉も、宗教も越えて、皆が連帯し、支え合って行かなければならないのです。アメリカ人の命の値打ち、日本人の命の値打ち、アフリカ人の命の値打ちに差異があるわけではないからです。犬や猫にお金はつぎ込んでも、行き倒れの人に手を差し伸べない。そういう社会に慣れっこになっていますが、これは異常です。野良ネコには手を差し伸べても、ホームレスに手を差し伸べないというのは、どこかがおかしいわけです。

  弱い人たちや貧しい人たちに、「それはあなたの責任だ」と言って冷たく突き放す。そういう考え、心は、聖書が語っていることとは違うということです。そういう意味において、クリスチャンは、先ず聖書に聞くことが必要だということです。

  私は常々、個人的な祈りの大事さを強調していますが、神との個人的な交わりを繰り返すことによってしか、心は変えられません。神に心の渇きが真に癒されて、心は実際に変えられます。しかし、変えられたから完全になったかというとそうではありません。何かがあると、また落っこちます。そこでまた神に変えていただこうとする。そして変えられるのですが、また落っこちる。ですから、フィリピの手紙でパウロが言うように、自分は捕えたとは思わない。体を前に伸ばして、捕えようとひたすら走る。そういう未完成の完成。そのような未完成な求道的なあり方が信仰者の完成ということです。

  心の渇きが満たされるのは、「あなたは愛されている。どんな苦境の時も、キリストの愛はあなたから決して離れることはない」ということを聞くときです。「あなたは私の目に値高く、貴い。恐れるな、私はあなたと共にいる」ということを、心と体と魂、全存在をもって知るときです。

  そのような中で、心が変えられ、心だけでなく社会や人への見方が変えられ、行動も変えられるます。そして、異質な人との対話が更に出来るようになり、信頼を創り出す人になる。そして、真に人と連帯的な生き方が可能になるのです。これは本当に聖書的だと思います。

  「あなたがたは世の光、地の塩」とは、こういうことです。

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  元に戻りますが、今日の聖書が語るのは、「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張ってのぼる」ということです。

  これは最初に申しましたように、勝ち組になる勧めではありません。上昇志向の勧めではありません。そうではなく、現在の行き詰った時代にあっても、「主に望みを置くなら」、人々が連帯し支え合って生きる「新たな力を得、鷲のように翼を張ってのぼる。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」ということ。主にあるなら、連帯する力は決してなくならないということです。主がその大きな力を授けて下さるということです。

  誰かが連帯してくれるのを待つのではありません。私たちが連帯を創り出す。その力は弱ることなく、疲れることはない。そして、この力は私たちが創り出す力ではなく、神がお与えくださり、その翼をお授けくださるということです。
  
       (完)

                                 2010年1月3日

                                      板橋大山教会   上垣 勝

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