元旦から薬物依存の人たちが来ました


登山電車がアイガーの巨大な岩山に入る手前にあるアイガー・グレッチャー駅。ここからの高原歩きが素晴らしいです。
                                ・  ・  
  
  
  
  
                                              鷲のように翼を張って (上)
                                              イザヤ40章27-31節


                                 (序)
  明けましておめでとうございます。

  新年早々、「鷲のように翼を張って」というおめでたい?題です。天に昇る龍だともっとおめでたかったかも知れません。しかし、地の底から昇ってくる龍は聖書ではサタンの象徴です。そういう題では、邪悪な宗教結社の集会みたいになります。

  「鷲のように翼を張って」と言っても、社会的な上昇志向を指している訳ではありません。鷲は両眼が鋭く、翼は長大、勇猛な肉食の猛禽ですが、最近はやりの草食男性たちにカツを入れたいわけでもありません。

                                 (1)
  イザヤ書40章の時代は2550年ほど前ですが、今日の言葉は、私には、現代の世界に語られている言葉のように思えます。というのは、「疲れた者」とか、「勢いを失っている者」という言葉が出てきますが、不況のあおりで多くの人がそうならされているからです。

  また、「ヤコブよ、なぜ言うのか。…なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた、と」ありました。これは、神も仏も、誰も私に味方して正しい裁きをしくれない。私の救いの道は、神の目からも隠されているというような意味と取れますから、経済不況の崖っぷちで絶望的になっている人たちの叫びのように聞こえます。

  もしそうなら、その人たちに希望が授けられるように、「主は、とこしえにいます神である。地の果てに及ぶすべてのものの造り主」と語られていると言えるでしょう。どういう意味かというと、主はあなたを造った方だから、必ず最後まで持ち運ぶ。恐れる必要はない。私はあなたと共にいる神である。たじろぐな、ということです。

  そして、神は「…疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇者もつまずき倒れようが、主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張ってのぼる。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と、励まされていると言っていいでしょう。

  聖書のみ言葉には、私たちを励ます力強いメッセージがあります。私たちの内側から創り変える力を持っています。ある人は単純作業をしている時、詩編の言葉を口ずさむそうです。暗記をしていて何度も同じ言葉を口ずさむのです。私も若い時に、会社の通勤の時に聖句を暗記をしました。それはすぐには効果がなくても、10年、20年後に実を結びます。苗木の時は何でもなくても、大きく枝を張って実を沢山つけると、その実力が分かるのと同じです。み言葉は、それを口ずさむといわく言い難い力をもって慰められます。神のみ言葉は、人間関係から来る躓(つまづ)きや苛立(いらだ)ち、また不機嫌を癒してくれる力を持っています。

  「若者も倦み、疲れ、勇者もつまずき倒れようが、主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張ってのぼる。」神の言葉は、鷲の翼のように、私たちを深い谷底から遥か山の上まで軽々と持ち運びます。天空に舞い上がらせる翼のような不思議な力です。

                                 (2)
  ですから、そういう意味において、今年も、私たちはみ言葉をよく味わい、神に祈る日々を送りたいと思います。「み言葉は、わが足のともし火。わが道の光」とありますが、ただ、実際にそのみ言葉に向き合って味あわなければ、折角のみ言葉も宝の持ち腐れです。日本の教会の弱い所は、頭で信仰を理解しますが、日常生活でイエスとの出会いがないことです。それでは「わが足のともし火。わが道の光」にはなりません。

  今年は、元旦の集まりをしませんでした。ところが他の団体が貸してくれませんかと言って来て、丁度良かったとおもいます。これまで毎週2階でしていた、NAの会(注)です。で、NAの人たちが元旦と2日に集まりました。クリスチャンより熱心です。昨日は首都圏の方々から50人近くが集まって、2階と1階に分かれて集会を持ち、私も参加しました。

  そこで話題になった一つの事は、いらだちや腹立ちということでした。ある人は、自分はすぐに切れるというのです。例えばスーパーのレジで並んでいて、向うの方が早いと思って並び替えます。ところがその列が中々進まない。すると苛立つというのです。私もそういうことがあります。早くしてくれ!って、心の中で叫んでいる。叫ぶだけならいいですが、心の中で銃を突きつけていることがあるって言うんです。まさにそう。表現が適切です。何で、おじいちゃん早くしてくれないの、モタモタしているの。早くしてくれよ、とか。もう、イジイジするというのです。また別の場面では、「あんた、こういう時はこうやるべきでしょ」と、命令口調で説教していると言うんです。このような切れ易さは、薬物依存の自分の特徴だと思っていると言うのです。だから、先ず深呼吸して話しかけましょうと自分に言い聞かせていると、ある女性が話していました。

  み言葉に生きたいと思っているが、実際にそうなっていない。それで、いらだった生き方になってしまう。それが治らない。「主に望みを置く人は、新たな力を得」とか、「鷲のように翼を張って」というのに、いらだっていて翼を張れない。新しい力が現われない。実際にみ言葉に向き合った生活がないと、人間関係の何かに躓くと、長く引きずってしまう。これは、NAの人たちだけではないのではないでしょうか。

(注)NAはナルコティクス・アノニマスの略で、薬物依存をやめたいと考えている人たちの会をさします。私たちの教会では、しばらく前まで毎週集会がなされていました。現在は中心になる人がいなくなり、残念ですが中止しています。

         (つづく)

                                  2010年1月3日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/