自分も両親も心を病んで…
スイス・アルプスの氷河。氷河は数千年かかって麓の村の川に解けて流れます。
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宝物を捧げた博士たち (下)
マタイ2章1-11節
(3)
少し飛躍しますが、馬小屋にさえ神の栄光が現わされたのなら、神は私たちのどんな困難な、暗い現実の中にも、その栄光を現わすことがお出来になるでしょう。私たちはどんな環境の中にいても神の栄光の輝きに触れることができるのではないでしょうか。
先週、戦前に朝鮮で神社参拝を拒否して学校を追放され、戦後宣教師になって日本に来られた丁(ちょん)先生という方のお話をいたしました。その方のことは、今日は繰返しません。
先生が足立区で伝道し、千葉の国府台まで出かけて精神科の患者さん達に伝道なさっていた時、Aさんという方が聖書の勉強会に来られました。発病は大学を終え就職して間もなくでしたが、以来病院を転々として、この病院に来られたそうで、中々社会復帰にいたらない男性でした。
この時は既に発症してから20年程になっていましたが、途中、不幸が重なりました。父も母も精神科に入院したのです。これは大変大きな打撃だったでしょう。家に残ったのは妹だけでした。ところが、父親は医者だったのですが、治療の甲斐なく入院中に自殺してしまったのです。数度にわたるひどい打撃を次から次へ受けて、ですからAさんは、出口のない、非常に暗い現実を抱えておられたわけです。
最初に聖書の学びに来られた時、「僕みたいなのが、聖書を読んでどうなるんでしょうか」というニヒルな質問をしたそうです。それはそうでしょう。しかし先生は、「神は心の弱い人は幸いだと、言っています。聖書を勉強するという事は、人間になるという事です。卑屈になったり、臆病になったりすることはありません。神様は、いまAさんに試練をお与えになっているのです。それに耐えているだけでも立派なことです。イエス様の受けられた試練も、そういうことだったのです」とおっしゃったそうです。すると、Aさんの顔に、サッと生気が射したそうです。以来、Aさんは聖書に導かれて、十字架を担って生きうるようになられたようです。
どんな暗い所にも、どんな低い所にもキリストは来ておられます。またどんなに権謀術数が逆巻く所にもそうですし、将来が拓けない、悩みの家にもむろん来られます。「闇の中に光が輝いている。」それがキリストです。キリストこそ、「彼は暗闇を呪うことよりも、ろうそくを灯そうとした」方であるでしょう。
Aさんは、自分のような所にキリストが来ておられることを知って、感謝と喜び、また畏れをもって神を迎えたのです。呪われた家にキリストが来て下さっていることを信じたのです。すると、担うには重過ぎる重荷であっても担う力を授けられたのです。
キリストに出会う人は、闇の只中にいても光に向かって前進します(ブラザー・ロジェ)。次々やって来る波に飲まれることなく、一歩一歩前進するのです。
キリストはヘロデの御殿に来られませんでした。満ち足りている、富める人の屋敷に来られたのでもありません。悩む人たち、低くされた人たちの所に来られました。
全人類、どんな人の内面にも渇きがあります。それは富や地位、また権力をもってしても満たせない渇きです。人の本物の渇きは、神への渇きです。この本物の渇きを満たせるならどんなに幸いなことでしょう。博士たちは、その渇きを満たすことができたのです。だからその顔は輝き、喜びにあふれたのです。
私たちが生まれ生きて、最も大切なもの、真理であり永遠に変わらぬ不変不朽の方に出会う幸い以上の幸いはありません。私たちの最も大事なものは命ですが、その命を見えぬ手で支えて下さっている方です。私たちはこの世に生まれて、その方を裏切りたくはありません。私たちは自分で生きていますが、本質的な所にさかのぼれば、命は暫く貸与されているものです。その貸与して下さっている方を、命の源、人生の原点を知ることにもまして、人生の喜びはありません。その原点に戻って行きましょう。
クリスマスの喜びは、聖なる、ホーリーな喜びです。それは私たちの命の源、命の原点を知る喜びであるからです。
(完)
2009年12月20日
板橋大山教会 上垣 勝
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