事を浅く計らず


 アイガーのふもとのチーズホンジュは森のきのこの香りが高く、ワインとマッチして思わず食べ過ぎました。
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                                              宝物を捧げた博士たち (上)
                                              マタイ2章1-11節


                                 (序)
  昨年のクリスマスに申し上げたことを覚えて下さっているでしょうか。私は、ルーズベルト大統領の墓碑に書かれた言葉をご紹介しました。「彼は暗闇を呪うことよりも、ろうそくを灯そうとした。そして彼の光と輝きが世界を明るくした」という言葉でした。

  この一年、一言でいえば、この墓碑銘を、まったく不十分でしたが自分なりに何とか生きたいと願う一年であったと思います。世界的な経済不況の嵐が吹き荒れる中、また個人的に色々な事情をもって生きる方もいらっしゃるでしょうが、「暗闇を呪うことよりも、ろうそくを灯そうとする。」この言葉は今も妥当性をもっていますし、ますます真理性を帯びて来ていると思います。

  今、私たちに必要なのは、呪うことや愚痴ることでなく、何とかしてろうそくを灯す人になることです。それは社会においてだけでなく、身近な家庭内においてそうです。暗い時代や困難な場所に置かれていればいるほど、その必要があります。

                                 (1)
  さて、今日の聖書には3人の博士たちが出てきました。聖書には「占星術の学者たち」とありますが、前の訳のように、当時の天文や医学を始めとする科学、また宗教にも通じた博士たちです。

  彼らは、イエスユダヤベツレヘムでお生まれになった時に、東方でその星を見たので、はるばる数百キロの旅をして拝みに来ました。そしてユダヤの都エルサレムに着いて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねました。その王宮に生まれたと考えたのでしょう。すると、それを伝え聞いたヘロデ大王は「不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と言うのです。同国人がそんなことを言ったら王は激怒したでしょう。だが外国人たちから言われて、度肝を抜かれたのです。

  この時、ヘロデ王はすでに70歳でした。誰に王位が渡るかは多くの人の関心でした。従って、余りにも無邪気に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と聞く博士たちに、誰しも戸惑い、ヘロデ王は心穏やかでなかったのです。

  ヘロデは、直ちに祭司長や律法学者からなる調査委員会を立ち上げて、綿密に調査させました。それと共に、自ら博士たちを呼び寄せて、事情聴取したというのです。「ひそかに呼び寄せた」のは、心の動揺を民衆に知られたくなかったからでしょう。もし噂が飛び交い始めたら、その新しい王を擁立してクーデターが起きるかも知れません。彼は抜け目なく振舞いました。

  しかも博士たちをベツレヘムに送り出す時、「行ってその子の事を詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と、まるで好意を寄せているかのように丁重に送り出したのです。むろん彼は、拝もうなどと毛頭考えていません。むしろ、居所を知れば、直ちに刺客を遣わす魂胆です。

  このように、イエスの誕生の出来事には、警戒心と駆け引き、時と場合によっては決して心の内を見せない大人の世界が見え隠れします。

  ある重役さんが入院しました。すると何人かが心配そうに見舞いに来ました。しかし、それは後継者のことを考えて様子を探りに来たのだそうです。これは今の日本だけではありません。3千年前、旧約の詩編にそういう人の姿が出ています。確かに大人の世界には、狐と狸の化かし合いのような駆け引きや、取引があります。ヘロデはその代表格のような人物かも知れません。

  ところが、それを知ってか知らずしてか、博士たちは、「王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所に上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と言うのです。ヘロデとは違い、博士たちは無邪気な子どもたちのような姿をしています。

  ヘロデ大王というのは大変な人物です。彼は生粋のユダヤ人ではありませんから、いつ謀反が起るかも知れないと警戒心を欠かしません。地方の一司令官から頭角を現し、カイザルにも縁故を作ってパレスチナの大王になって行きます。かみそりの刃のような神経をもつ男で、謀反の芽を感じるや直ちに行動する人物でもあります。彼が王になるまで、そしてなってから、側近や肉親、それに妻までも次々殺しました。猜疑心が強く、敏感で、いかなることも断行する残忍な性格であったと言われています。彼が死んだ時、国中で喜びの歓声が上がったと言います。

  ところが博士たちは、そんなヘロデ王であるのに、「王の言葉を聞いて出かけた」のです。才知にたけ、ずる賢く、残忍この上ない王の言葉ですが、疑わず信じて出かけました。そして、星を見つけると「喜びにあふれた」のです。「喜びにあふれた」という言葉は、前の訳では「非常な喜びに溢れた」となっていました。原文のギリシャ語では、メガレーという言葉とスフォドゥラという最大級の言葉が2つ重ねて用いられています。今の若者風に言えば、「チョウ喜んだ」ということでしょうか。

  私が言おうとしているのは、博士たちをイエスのもとに導くために、神はヘロデ王をも用いられたという事です。神は、悪人のなす企ても逆にお用いになることがお出来になります。そういう主権をもっておられるのが主なる神です。私たちは事を浅く計ってはならないでしょう。博士たちの姿から、そんなことを教えられます。

  また、博士たちのように、誰の前であっても、恐れることも恥じることも必要ないという事を教えられます。神様から示されるものに率直であってよいのです。人生に勇気をもっていいのです。

        (つづく)

                              2009年12月20日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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