それでも、あなたに光が輝く


 グリンデルヴァルトの教会墓地には山男たちのお墓があちこちにありました。そこで問題。日本人のお墓はあるでしょうか?  
                                ・  ・  
  
  
  
  
                                              あなたを照らす光がある (上)
                                              イザヤ60章1-4節

                                 (1)
  イザヤ書は3人のイザヤの預言を集めたものです。第1イザヤはエルサレムのイザヤと呼ばれて1章から39章までの預言を語りました。次の第2イザヤはバビロニアのイザヤと呼ばれ、バビロン捕囚の時代に預言しました。40章から55章までの預言です。最後の第3イザヤは今日の60章を含む、56章から66章の最後までを語った預言者です。

  第3イザヤは既にエルサレムに帰還していましたが、まだ町は廃墟の中にあって、彼のいる世界には暗黒が満ちていることを示唆しています。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」と述べている通りです。

  彼は、多くの人たちとバビロンからエルサレムに戻りました。しかし世界は今も闇の中にあり、自らを助けようと必死になってもがいているのを見ています。そこには、戦乱と敗北、虐殺と滅亡、強制連行と重労働という捕囚の傷跡が今なお残っています。

  今日(12月13日)は何の日かご存知でしょうか。今日は第3週ですから、先ほど戦争責任告白を読みましたが、今日は72年前に南京大虐殺が起った日です。礼拝に2人の中国人が出ておられます。南京は上海の奥地ですが、Sさんの町は上海の近くと聞きます。で、南京大虐殺は数日で20万とも30万とも言われる中国人が、南京城内と長江の川辺で虐殺されました。今日、13日の夜は東京で何万人かの提灯行列があり、皇居では万歳の声が叫ばれた筈です。ただ72年後の今週、中国の副主席が天皇と会談することになっています。

  私は先週、「悲しみの南京」という芝居を見ました。それは、俳優さんの父親が戦犯になり、その父親を通して南京大虐殺と向き合った芝居で、非常に気持ちが重くなるお芝居でした。南京で日本軍は何をしたか、凄まじいことです。

  では、現代の闇はどんな姿をしているでしょう。むろん70年前とは違います。日本は今はもう、一億総中流でなくなりました。貧困率は社会格差を表わす指標だそうですが、非常に高く15.7%です。よくご存知のように、この10年ほど、自殺者が年間3万数千人に達して低下する気配がありません。

  18歳のプロゴルファーが何億円も稼いで、今年の賞金王などとテレビが追いかけ、もて囃し、新聞もそうです。これは明るいニュースとは思えません。暗いニュースです。もっと解せないのは、市橋シスターズというのがあるそうです。歌のグループではありません。英国人女性を殺した男のファンクラブのようなものだそうです。これは社会の闇がいかに暗いかの証拠です。バラバラ殺人事件が一年に幾つも起こるのは常軌を逸しています。社会は極めて病んでいます。闇が地を覆っていると言えるかも知れません。

                                 (2)
  しかし、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と語られるのです。この「あなた」は女性形で書かれています。シオン、エルサレムを指しているからです。

  「あなたを照らす光」とは主の光です。地は闇で覆われていても、約束の光、長く待望されていた救いの光があなたの上に昇ったのです。

  「昇った」と言いましたが、前の訳は「昇った」と訳されていました。これは文法的には預言者的完了形というので書かれているからです。未来のことですが既に到来したもののように確実に起こる時に使われる特殊な表現方法です。2節に、「あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現われる」と、1節とほぼ同じ言葉が繰返されるのも、その事が確実に起るからです。

  その確かさは、どんなに暗黒が深く、闇の業が社会全体を包み、人々がその力に飲み込まれたり、たぶらかされたり、犠牲になっているとしても、必ず闇が一掃されるのです。

  カール・バルトという人は、こんな比喩を用いています。すでに朝日が昇った。だが谷底にはまだ陽が届いていない。そのために暗さが支配している。あるいは、部屋は厚いカーテンを閉められているので、部屋の中はまだ暗い。しかし時と共に谷底にも陽の光が射すようになる。或いは、カーテンを開けるなら、既に眩(まぶ)しい太陽が照っていて、部屋いっぱいに明るく照らされるだろう。

  アドベント待降節というのは、そのような確実な光、世の光であるお方が来られるのを待つ時です。或いは、カーテンを引いて、すでに飼い葉桶に生まれられた幼子キリストを拝する時です。

          (つづく)

                                  2009年12月13日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/