不完全の完全を生きる (下)



グリンデルヴァルトの教会の中に入ると、この地方の歌を教会学校の子どもたちが練習していました。次の日曜日に教会を訪れる人たちの前で歌うようです。それは素晴らしい歌でした。
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                                              不完全の完全を生きる (下)
                                              フィリピ3章12-16節

  
  
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  前に戻りますが、パウロは優れた人です。だが、自分は既に捕えたとか、完全になっているとか、キリスト教の奥義を知ったとか言いません。「何とかして捕えようと努めているのです」と言っています。また、「私自身は既に捕えたとは思っていません」とも語っています。

  パウロは前進的です。それは、「捕えたと思って今ない」というへりくだりが前進的にさせています。ですから彼は求道的です。そして先に向かって成長していきます。

  私は、植物の木や草を見ていると時々感動します。嬉しくなるんです。ここのパキラを毎日見ながら祈っていますが、夏場はどんどん新しい葉が生まれて、かわいい手のひらのような葉が徐々に大きくなります。日によってあっちに向いたり、こっちに向いたりして成長していきます。彼らは成長点というのを持っていて、その成長点から更に先に伸びて行きます。光を求めて、光の方に伸びて行っています。成長点というのはどういう組織になっているのか、どういう動きをしているのか、私は植物学者ならぜひあそこを研究したいと思います。

  パウロを突き動かしているのは、ここにあるように、「キリスト・イエスに捕えられている」ということだったと思います。

  今日は、アドベント第2週を迎えて、2つの明かりがつきました。東方の博士たちを動かしたのは最初は星でした。沈黙をもって静かに語りかける、天上高くあって決して語らない、だが彼らには雄弁な星でした。その星が彼らを何百キロの危険な道のりを旅させました。そして、神の子キリストに出会いました。神のお子に出会えるというこの星の囁きに捕えられたことも彼らを突き動かしました。そしてやがて、キリストに出会ったことが彼らを動かしていきます。

  パウロは、復活のキリストに出会い、「キリストに捕えられて」、それが彼を動かしています。

  ある教会に全盲の婦人がおられました。緑内障で中途失明して、若くして離婚させられました。とんでもないと思います。で、質屋の兄さんの家に置いてもらっていました。質屋と言うとケチと思ったりしますが、それは先入観で、心の温かい質屋もあります。中途失明ですから日常生活も大変、外出するのはそれ以上に大変です。人生の不運に躓き、人生を呪い、腐っていました。

  しかし、この方が教会に通うようになり、イエスが自分を知って下さっていること、また自分のような者も招いておられることを知り、洗礼を受けます。それでイエスの言葉を聞くために毎週来られるようになりました。その生き方に、神を中心にする生活態度が生まれました。色んな不都合や障害は誰しもあります。だが不都合を乗り越えて、毎週教会に集い、イエスに留まり続けたのです。

  留まり続ける中で、やがて視力障害者の集会に参加したり、全盲なのに隣人のために奉仕したりできるようになり、教会学校で子ども達にお話ししたり、家庭で集会を開くようになられました。質屋においてです。目から完全に光を失われた方ですが、周りに光を放たれたのです。肉体は失せても、内なる人は輝き、霊はますます人を励ましたのです。

  そのようになったのは、キリストに捕えられて突き動かされ、熱心に主を愛し慕うようになられたからです。パウロは、そういうあり方を大事にしたのです。

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  さて13節でパウロは、「兄弟たち、私自身は既に捕えたとは思っていません」と語り、続いて、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と書きました。

  今日、私たちは単純になることが非常に大事です。複雑な時代だからこそ、単純な生活、簡単な食事、素朴な生き方が大事になります。多くのことに思い煩っていると必ず不安に襲われます。今は不安社会です。病んだ社会です。色んなものが不安を掻き立てます。この不安を振り払わなければなりません。薬だけでは根本的に不安は払えません。薬も必要ですが対症療法です。

  パウロは、「なすべきものはただ一つ」とまで言い切っています。それほど単純に考えれば力が出てきます。人の目、人の言葉、社会の目を気にせず、私たちの身辺を整理し、優先順序をつけ、キリストがせよと命じられることを、先ず為すのです。内面に語りかけて来る多くの声の中から、私などはメチャクチャ多くの声が語りかけてきますが、その中からキリストが語りかけられる声を聞く、選び出すのです。その訓練、修練が大事です。

  テゼ共同体のブラザー・アロイスさんが、この年末にポーランドで開かれる大会で発表される手紙を先に読ませていただきました。その中に、「悪いニュースに焦点をあて過ぎて、将来に対する悲観的な見方で圧倒されないように」と語っています。今の社会に適切なアドバイスです。今、私たちに欠けているのは、冒険です、大胆さです。悪いニュースに焦点をあて過ぎれば誰しも縮こまって身動きできません。

  パウロは単純になって、キリストを目指してひたすら走ると言った後、「私たちの中で完全な者は誰でも、このように考えるべきです」と書きました。

  私たちの完全は完全自体にありません。キリスト者は完全なもの、完璧になってしまうことを目指しません。そうでなくて、完全なる方が私たちを捕え、上に召して下さるから、後ろのものを忘れ、前に向かって全身を伸ばしつつ、目標を目指して走るというところにあります。

  時は捕えられません。音も捕え切れません。宇宙は今も膨張し、成長し続けています。パウロは神に従い、宇宙的です。前に向かって前進的なあり方を失いません。それは待ち望む生活でもあります。今日の後の20節にあるように天に国籍をもち、地上に責任をもって旅する生活です。

  信仰における完全さとは、不完全な中で、「目標を目指してひたすら走る」ことの中にあります。私は完全である。これで十分。もう達すべき所に達した。そういう事ではありません。そういうのは、まだ達すべき所に達していないからです。まだ、ずっと手前にいるからです。だから傲慢やうぬぼれが生じ、自分を相対化できないのです。

  私はニュートンのリンゴの木のそばに立ったことがあります。本当は、元の木は枯れて、今のは子孫の木だそうですが、大きく枝を張っていました。ニュートンは、「私は真理の大海を前にして、浜辺で貝を拾って遊んでいる子どもに過ぎない」といいましたが、真の科学者は謙虚です。まだ勉強不足で、研究すればするほど知らないことが次々現われますと言うに違いありません。それと同じことが、信仰者にも言えます。

  私たちは永遠に不完全です。またそうであっていいのです。しかし、なすべき事はただ一つ。単純になって、上に召して下さる方に向かって、過ぎ去ったものに囚われず、そういうものに胡坐をかかず、前のものに全身を向け、キリストにあって謙虚であるという目標、キリストと共に生きると言う目標、自分を愛するように隣人を愛すると言う目標。ただ一つ神を目指して人生を走りぬきましょう。

  もしキリストへの信頼をもって始めるなら、つぶやきは消え、思い煩いは去り、目を前方に向け、このただ一つのものに向かって進み始めることができるでしょう。

          (完)

                             2009年12月6日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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