不完全の完全を生きる (上)


 グリンデルヴァルトの村の教会に行ってみました。教会の中で素敵なものに出会いました。それは次回…
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                                              不完全の完全を生きる (上)
                                              フィリピ3章12-16節


                                 (1)
  アウグスチヌスは、今から1600年程前の4世紀から5世紀にかけての人です。彼は古代キリスト教の聖職者であり、神学者、思想家ですが、その思想はキリスト教に留まらず、西洋思想全体に及んで今日に至っていると言って過言ではありません。山に譬えれば、彼は世界から抜き出て聳える名峰と言えるでしょう。実に偉大な人です。

  ところが彼は、救いの道で大事なのは何ですかと尋ねた青年に、「謙遜です」と答えました。では二番目に大事なのはと聞く彼に、「二番目は謙遜です」と答え、3番、4番目も「謙遜」と答えたといいます。彼は謙遜を人間として、信仰者として最も大切なものとしたのです。

  謙遜ということは、今日のフィリピ書とも関係します。2章でパウロが、「何事も虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、…自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と書いた後、イエス・キリストの「へりくだり」に触れました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と語っています。

  キリストのへりくだり、謙遜。そこにキリスト者の最も大事と考えるべき生き方、徳がある。そうアウグスチヌスは考えたのです。私たちが今、謙遜であるかどうかは別にして、謙遜を求めない、謙遜になりたいと願わないキリスト者というのは、光も熱もない太陽のようなものです。そんな太陽は存在しません。それはキリスト者とは言い難いでしょう。それほど謙遜は信仰者にとって大事です。

                                 (2)
  フィリピ書の著者パウロは謙虚です。無理にへりくだっているのではありません。自然な謙虚さを持った人です。そのことは今日の箇所でも窺えます。

  「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。」また、15節の半ばで、「あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」と述べて、自分とは違った考えの存在も認めています。

  パウロという人は、ペトロと並び称されるキリストの使徒の中で最大の人物です。イエスの復活後に信仰に入った人ですが、信仰の中心は何かを明らかにし、信仰と教会の基礎を思想的に固めました。愛の人でありつつ深い思索の人であり、祈りの人でありつつ行動の人であり、ローマの信徒への手紙のような深遠な信仰の思想を展開できる人でありつつ勇敢で積極的な伝道の勇者でした。言葉の人でありつつ実行の人だったといえます。

  にも拘らず謙虚であったという事は、大変考えさせられることです。

  彼は少し前の9節で、「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と書いて、神に義とされたことを深い感謝とともに語っています。神の子キリストに敵対して教会を迫害し、キリスト者たちをひっ捕らえて苦しめた人ですから、そんな者が、義とされる筈がないのですが、キリストが罪をみな引っかぶって死に、復活して罪に溢れた者を義として下さったことを痛く痛感しているのです。彼は贖罪愛によって生かされたことは、この言葉からも分かるでしょう。

  彼の手紙を読むと、繰り返し、「自分の義ではなくキリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」に立ち返ったことが分かります。彼はどの手紙でもそうしています。それが彼の原点です。繰り返し、繰り返し、神による義、信仰による義に戻っては、またそこから進んで行くという人でした。彼ほど「信仰による義」というもの、神に義とされ、神に受け入れられ、よしとされるということを喜び、大事にした人はないでしょう。彼の力の源泉はそこにあったからです。

  ただ、彼は、神によしとされるということを大事にしましたが、よしとされたという所で安住しませんでした。むろん、そこで人知では得られない神の平和を与えられました。4章でそう書いています。しかし、もうそこで寝転んで、日向ぼっこしていれば楽でしょうが、私などはそんな所がありますが、パウロパウロたる所は、そこに留まらず、神の平和ゆえにキリストの恵みに応えてひたすらにキリストに従うところです。

  10節で、「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与り、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と書くのがそれです。彼は、次のコロサイ書で、「キリストの苦しみの欠けた所、足りない所を、身をもって満たしたい」とまで書いています。

  使徒言行録にあるように想像を絶する試練を受けながら、その心の平和は消えず、どんなことがあっても耐えて、変えることの出来ないあらゆる状況にも拘らず、あえて更に耐え忍んで先へと進みました。先ほどのアウグスチヌスの先生はアンブロシウスという人ですが、彼は、「先ず自分の内に平和の業を始めなさい。あなた自身が平和で満たされる時、他の人々にも平和をもたらすことができる」と語りました。このこともパウロのあり方と関係します。

  詩編116編に、「私は信じる。『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」とありますが、キリストに命の源泉を持つゆえに、パウロはそういうことができました。

  彼の謙遜は、キリストの前に真実に出て、そこから来たものです。ですから、その謙遜は、火がつき熱い情熱の行動ともなって変化する謙遜です。今日の12節以下も、パウロのそのような、何かがあればパッと発火して、火がつきそうな情熱の窺われる謙遜をもって述べられています。

          (つづく)

                               2009年12月6日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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