あなたを手のひらに刻みつけた (下)


          グリンデルヴァルトの村のどこに立っても4000m近い峰々が手の届きそうな所にあります。
                               ・   ・
  
  
                                        あなたを手のひらに刻みつけた (下)
                                        イザヤ49章14-21節
  
  
  
                                 (3)
  しかし、私たちがこの箇所から聞くのはそれだけではありません。旧約と新約からなる聖書全体は、イスラエル民族の何千年という長い曲折のある旅路を書き留めながら、やがて救い主キリストが来られる時を、神がどのようにゆっくり、着実に準備しておられたかを書いています。

  聖書が情熱を傾けて書くのは、神と人間の出会いと愛の歴史です。最初は、創世記にある花嫁のような初々しい愛、新鮮な愛に始まる歴史ですが、やがて人間の罪と不誠実、不貞が明らかになる歴史です。にも拘らず、神は絶えずその民を探し求めて来られた歴史です。聖書が最も力説するのは、決して裏切らない神の愛、神の真実であり、誠実です。人間の罪を引っかぶっても、私たちを愛してやまない神の愛です。ですから、新約聖書の最後の方で、「私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛して、み子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と書かれるのです。

  「場所が狭すぎます。住む所を与えてください」というほどの大きな群となって帰って来ると預言されているのは、聖書全体から考えるならイスラエル民族ではありません。キリストに贖われた、もっと多くの新しい神の民のことです。新しいイスラエルとも言うべき信仰者たち、キリストによって呼び集められた世界中の人たちのことです。彼らがおびただしい群れとなって神の前に帰って来るのです。

  まさに一箇所では場所が狭すぎます。むしろ世界に散らされていることを喜びとし、その場所で、一刻、一刻を神様から授けられた時として、地の塩として、世の光として生きて行くのです。

  現実に目を閉ざした人としてではなく、神にしっかり錨を降ろし、現実に掉(さお)さしながら今の時代を生きるのです。

  中国のキリスト者たちは今、非常にタフで活発な信仰を生きていると言われています。国費留学生として中国から来て、暫く前から教会に出席しているAさんにも、いつか中国の事情をぜひお聞きしたいと思います。両親や祖父母たちは信仰を禁じられた時代に、苦難の中で忍耐しながら神への忠実を持ち続け信仰を貫いたそうです。最近、テゼ共同体の3人のブラザーたちが中国を訪ね、あちこちの教会で集会をして廻りましたが、そこで見たのは、困難な状況にありながら、中国の将来のために積極的な役割を果たしているキリスト者の姿であったそうです。例えば、四川省で昨年大地震がありましたが、そこへキリスト者たちが応援に行き、今なおそこに留まって支援を続けているそうで、全住民から感謝されていると語っています。

  彼らは現実に目を閉ざさず、神に錨をしっかり降ろしながら、現実に掉さして地の塩、世の光として生きようとしているのです。

                                 (4)
  今日から前の明かりが一つ灯り、アドベントが始まります。アドベントの4週間は、キリストに錨を降ろして生きるために、絶対者である神への渇望を更に養うときです。どんな人間的な親しさによっても満たせない、真実な愛への渇きを温める時です。心を神に向け、神と出会って、心の静けさと平和を味わおうと願うのです。

  またアドベントは、イスラエルの歴史に起ったように神が想像を超えて行動されるのを待ち、それを知るために静かに跪く時です。長く待てば待つほどおいで下さる方を深く知り、深く学ぶことができます。そしてその方は、何よりも私のために来て下さることを知り、それだけでなく、全世界の人々に漏れなく来てくださる方であると知ります。アドベントは、他でもない私と世界に救いの喜びが訪れるのを切に待望する時期です。

        (完)
                               2009年11月29日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/