あなたを手のひらに刻みつけた (中)


                 ヨーロッパのアルプスの天気は急変します。先程まで晴れていたのに。  
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                                        あなたを手のひらに刻みつけた (中)
                                        イザヤ49章14-21節

  
                                 (2)
  さて、今日のみ言葉と2人の方の信仰の関係をお話しいたしましたが、今からお話しするのは、このみ言葉が歴史の中で持っている意味です。

  14節は、「シオンは言う。主は私を見捨てられた。私の主は私を忘れられた、と」とありました。「シオン」とは、エルサレムの人々です。イスラエルの人たちと言い換えてもいいでしょう。

  なぜ彼らが、「見捨てられた」と言っているかというと、紀元前587年にエルサレムを都とするユダ王国は、強大な新バビロニア帝国によって一飲みにされて滅ぼされました。人の往来が激しかった都は廃墟になり、人々は奴隷として遠くバビロニアに強制連行されて行き、大変な重労働を課されました。私たちは中国や朝鮮の人たちを日本に強制連行して重労働を課した歴史を持っていますから、バビロニアに移された人が受けた過酷さは大変だっただろうと想像されます。彼らは、5年、10年、20年経っても祖国に帰る見込みがありませんでした。。

  そこで彼らは悲痛な思いを込めて、「主は私を見捨てられた。私の主は私を忘れられた」と叫んだのです。これは、そういう現実の歴史に耐えかねて発せられた声です。

  それに対して15節以下は、この叫びに対する神の答えが預言者イザヤによって語られたものです。「私」とあるのは、主なる神を指しています。

  「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたたちを忘れることは決してない。見よ、私はあなたを、私の手のひらに刻みつける。」この言葉は先ほどお話したように、自分に語られた言葉として解釈できますし、していいのですが、本来は、神が神の民イスラエルを永遠に忘れず、手のひらに刻みつけるという意味です。

  人間の目には、イスラエル民族の再建の見込がなくなっても、神は忘れられない。神の目から見て時が満ち、救いの時が来れば、種が芽を出すように必ず民族が回復されるというのがこの約束です。

  ですから17節は、「あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る」と再建をはっきり語っています。また19節は、「破壊され、廃墟となり、荒れ果てたあなたの地は彼らを住まわせるには狭くなる。あなたを征服した者は、遠くへ去った。あなたが失ったと思った子らは、再びあなたの耳に言うであろう。場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と」あります。また、21節の後半は、「誰がこれらの子を育ててくれたのか、見よ、私はただ一人残されていたのに、この子らはどこにいたのか、と」書かれます。

  10年、20年では時は満ちませんでした。だが40年ほどして、ペルシャのクロス王によってイスラエルの民の釈放が発布されたのです。それで強制連行された人の2世、3世たちが祖国に帰って来るのです。「子ら」とあるのはその人たちを指しています。エルサレムは廃墟になって、「私はただ一人残されていた」のです。しかし今、釈放された人々が、「この子らはどこにいたのか」と思うほどの群れとなって帰って来るのです。「場所が狭すぎます。住む所を与えてください」という声すら聞かれる程だというのです。

  連行された時より何倍も多くなり、群れをなして帰ってきる。本当に不思議なことですが、厳しい苦難の中でも、神の祝福があったということです。

  神の業は計り知れません。心を静めてそれを知らねばなりませんし、また神が働かれる時を待たねばなりません。現代人は、物事が熟す時間の重要さを忘れています。一挙に結論に達したい。せっかちです。待てない。コインを入れればすぐに、結論が出てくるように、です。待てない子どもたちが多く育ってきています。大人だって待てなくなっています。

  この間、妻の姉が5日間ほど来ていました。70歳を過ぎても元気ですが、1人暮らしで、食事を作るのが面倒なようです。もし、一粒飲めば数日食べずに済む薬ができたらいいなあと言っていました。確かのそうかも知れません。

  しかし一刻、一刻に意味があります。一食一食を作り、頂くことに意味があるのじゃあありませんか。以前の聖書の訳ですが、詩編31篇に、「私の時は、主よ、あなたの手の中にあります」とありました。この「時」は複数形で書かれています。私たちの色んな時、一瞬一瞬、いや全ての時は神様の手の中に在る。私たちが行なう人間臭い事柄も、もし神に向かって神の栄光のために為されるなら、神の手の中で真珠のように輝くでしょう。だから神を信じて生きることが大事です。神との関係が生まれると生きる喜びが、力が生じるからで、一瞬一瞬の時が、神のみ手の中で意味を帯びて来ます。無駄な時は一瞬としてありません。

  私はもともとせっかちで、時間を無駄になるのが嫌で、一生懸命にしたのにすっかり無駄になったりすると本当に絶えられない程むしゃくしゃする質(たち)です。でも、最近は無駄になっても、この無駄は、神様が私に必要だから無駄にされたんだと思うようになりまして、そう思うと無駄が意味を持ってくるんです。それで最近は余り焦らなくなりました。

  非常に長い、捕囚という厳しい辛い日々も神の手の中にあるのです。やがて、「この子らはどこにいたのか」と思うほどの大きな群れとなって帰って来る。という事は、相手の手に捕われながら、実は神の手の中に守られていたということです。「場所が狭すぎます。住む所を与えてください」という声すら聞こえるほどの人々が、連行された時の何倍にもなって神に祝福されて帰ってくる。今日の聖書はそう述べています。

         (つづく)

                               2009年11月29日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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