油断なく心を守れ (下)



インターラーケン・オストから登山電車で終点のグリンデルバルトに着きました。明日のユングフラウ・ヨッホと高原のウオーキングが楽しみです。下はホテルからのヴェッターホルン。
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                                              油断なく心を守れ (下)
                                              箴言4章18-27節
  
  
                                 (4)
  ですから23節は、「何を守るよりも自分の心を守れ。そこに命の源がある」と語ります。ある英訳は、「油断なく心を守れ」となっていました。

  「心」と言われている言葉は、元のヘブライ語で「ベテン」と言います。これは心だけでなく、「胎内、腹」を指します。また動詞になると、「子を宿す。はらむ」という意味にもなります。

  でしから、ヘブライ語の「心」と言われる部分は、人の内面の最も深い核心部を表し、命が宿る所でもあり、人の内的な生命を意味します。その深い部分から、私たちの言葉や行動が出てくると考えているのです。そのために、油断なく、あなたの人格の最も深い核心部を守れ。そこを壊したり、腐らせたり、軽視してはならない。人を尊ぶとは、この深い部分を持つ存在として敬意を払うことです。このような深い核心をその人も持つ者として敬うのです。人の表面でなく、この核心部分に目を留めるのです。

  だが、今日の聖書はそれだけで終りません。心、「そこに命の源がある」と申します。そこに思いもよらぬことですが、神からの命が、キリストの聖霊が隠された源となって宿り、誰の心にも存在していると語っている気がします。その源は、人が掘って生まれる源ではありません。神が、万人の心に、そっと備えて下さったものです。ですから何者もこの源を無視できませんし、なくすことはできません。

  万人にこの命の源がそっと備えられていますが、ただ、その泉の口が何かでふさがれているかも知れません。ですから源はあるがまだ命の水は沸々と湧いていない。

  しかし命の源があるわけで、一旦泉が湧き出せば、誰もこの源から、神の泉が湧き上がるのを止めることはできません。そしてキリストを信じる人は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われるのです。また、「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われるのです。そのような命の源を神は用意してくださっているのです。

  暫く前のテレビで、長く紛争が続いたコソボにある世界遺産を取り上げていました。今も2つの民族の敵対は強く残っていて、国連軍の監視下でやっと平和が保たれていると報道されていました。

  番組の最後に、コソボの女子修道院にある沢山のイコンが映し出されました。それらはアルバニア人に焼き討ちされた教会に残っていたイコンだそうです。イコンには甚だしく焼けただれたものもありますが、あまり焼かれていないものがそこに飾られていました。

  1人のシスターがこう言いました。私たちは被害を受けたものだけを置きたくありません。被害を強調することによって人の内面の憎しみを掻きたて、憎悪を煽るべきではありません。あなた方、テレビの人も今も残る憎悪を強調するために取材するなら、決して平和を作れません、と語っていました。

  真理はここにあります。この言葉は多くの人の胸を打ったと思いますが、私たちも日頃の生活において憎悪を煽ったり、掻き立てることは決して賢明な生き方でないと考えるべきです。

  むしろ湧き溢れる命の言葉が、希望や和解を与える言葉が流れ出すようにしなければなりません。神はそのために、万人の内に命の源をお置きになったのです。その源を守れ、油断なく守れと勧めているのです。
         (完)

                                  2009年11月22日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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