油断なく心を守れ (中)


                ベルンの「正義の泉」の水は500年以上一度も涸れずに流れています。
 
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                                              油断なく心を守れ (中)
                                              箴言4章18-27節
  
  
  
                                 (3)
  さて24節は、「曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ」と命じます。逆から言えば、愛をもって真実を語れということでしょうか。

  これは、若い時の私なんかはちょっと痛かったです。人は複雑です。素直な割りに、ひねくれた、すねた所があったからです。そのために自分の心や姿を愛せなかったです。誰だったか、「自分をいとおしむことのできる人は、自分というかけがえのない友を得た人だ」と書いていました。味のある言葉ですね。

  ケンカの起こりは、不機嫌な自分自身とうまく行っていない事に由来することが多くあります。他人より、自分に腹を立てています。腹立たしいことを言われたことより、腹立たしいことを言われるような自分に腹を立てているっていうことです。ですから愛をもって自分を見てあげ、自分を労わってあげるのは重要です。自分を真に労われるのは自分をおいていないのですから。

  言葉が信頼できる時に、信頼関係は育ちます。嘘や部分的にだけ真実な言葉、ましてや人を欺く言葉は信頼関係をそぎ、胡散臭さを起こさせるでしょう。

  そこで、「目をまっすぐ前に注げ。あなたに対している者に、眼差しを正しく向けよ」と25節は言います。自分に正しく向かっている人に対して、ハスに構えず、紳士的であれ。今日は婦人たちが多いですから、淑女的であれということでしょう。一個の人格として、疑いでなく信頼をもって正しく接しなさいということでしょう。自信をもって接することでもあるでしょう。ハスに構えると、ハスにしか見えず、相手の正面からの姿が分かりません。2500年ほど前、あるいはこれは2900年前の言葉かも知れませんが、古代社会にあって人としてのあり方がひと際深く洞察されています。

  話しはスイスの話になりますが、首都ベルンの最も古い町並みはほぼ900年前に出来ました。鎌倉時代の100年程前です。その古い町の大通りは今も残っていますが、「正義の大通り」 Gerechtigkeitsgasseと言います。その石畳の長い通りの中ほどの路面の真ん中に、1534年に造られた「正義の泉」と言うがあって、絶えず泉が流れ出ています。今も飲むことができます。この泉の台座の上に高く聳える「正義の天使」の像が建てられています。

  その姿は変わっています。天使は、右手に剣を持ち左手に天秤ばかりを持っているのですが、目隠しをしているのです。不思議に思って街の人に聞きました。すると、「天使は公平な裁きをします。一切の人間的な虚飾、家柄や名声、美貌、貧富などを見るのでなく、それらを越えて正しい裁きをするためです」と男性が教えてくれました。

  目隠しをしているのは、人々を公平に見、「眼差しを正しく向け」るためです。帰国して調べましたら、天使の足元に、何と当時のローマ法王や皇帝や市長などが踏みつけられていました。像は1534年に建てられたと言いましたが、この像には、宗教改革のメッセージが込められているのです。それが街のド真ん中に、500年も続いて建って、人々を勇気づけているのです。日本だったら国宝にして、決して雨ざらしにせず、建物を建てて拝観料頂戴という事になるでしょうネ。

  来週からキリストの誕生を待つ待降節が始まりますが、ルカ1章のイエスの母マリアの賛歌が歌っているのがそれです。「主は…思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし」とあります。

  前の自公政権時代には内閣官房機密費が、毎月一億円支出されていたそうですね。何とべらぼうな金額でしょう。国民が一番腑に落ちないのは、衆議院選挙の2日後に、前の官房長官が2億5千万円を直ちに引き出し、何かに使い切ったと言うことです。何か悪い事に使われたのでなければいいと思いますが…。これにはぜひ、国民の正義の眼差しを向けなければならないでしょうネ。

  しかし、「目をまっすぐ前に注げ。あなたに対している者に、眼差しを正しく向けよ。」これは正義の裁きの目だけではありません。偏見や先入観を排した透明な、澄んだ目です。それに加えて温かい寛大な見方です。

  イエスは、私たちを真っすぐに、しかも温かな穏やかな目で見られます。3度も知らないと言ったペトロをも、愛のこもった眼で振り返られました。こういう温かい目は、目をとめるものを希望の光で明るく照らし出します。勇気を与えます。

  聖書が語るのは尖がった目でなく、穏やかな目です。イエスの目は穏やかな平和な目です。尖がった目で見ている人たちが時たまありますが、そんなことを続けていると自分でも生きるのが辛くなるに違いありません。

  しかし、澄んだ温かい目で人や物事を見る時、周りにあるものの姿が違って見え始めます。穏やかな目で見つめれば、物事は美しく見える筈です。これは自分に言い聞かせています。

  ただ、どうでもこうでも美しく見なければならないという事ではありません。コヘレトの言葉に、「神が曲げたものを、誰が直しえようか」とあります。神が曲げられた曲がったものを真っすぐに見るとは、曲がったものは曲がったままに見ることです。曲がっているのに曲がっていないと言ったり、曲がっていないのに曲がっていると言わないことです。正直に事柄そのままを見よとのことです。そのような素直さ、透明さが人生には大事です。

          (つづく)

                                  2009年11月22日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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