あなたは死者の中から復活する


 ゴールデン・パノラミック・ラインと言えば壮麗な響きがありますが、こんな何でもない駅から始発するのがほほ笑ましかったです。
  
  
  
                                           あなたは死者の中から復活する (中)
                                           フィリピ3章10-11節
  
  

                                 (2)
  さて今日の聖書でパウロは、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」と語ります。

  「何とかして」という言葉に、彼の意気込みの強さが窺われます。この「何とかして」という言葉は、前の口語訳聖書でも「何とかして」と訳されていました。また、その前の文語訳聖書では一層強い調子で、「いかにもして、死人の中より甦ることを得んがためなり」となっていました。英語でも大体そうで、「何とか努力して」とか、「何とか骨折って」という言葉を使っている聖書もあります。死者からの復活というのは神様がお与えになることなのに、まるで自力で、復活を獲得したいと言っているように聞こえます。これはどうしてでしょう。

  ただすぐ前の9節では、自分は「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基いて神から与えられる義があります」と書いています。どういうことかというと、律法を行ったり善行を行なって獲得する自分の義でなく、キリストを信じる信仰に基づいて神から授けられる義、神の恵みとして与えられる信仰の義、信仰義認の義を与えられているということです。9節では、自力で義を獲得しようとか、復活を獲得したいとかという様子は微塵もありません。

  覚えておきたいのは、パウロという人は、「信仰によって義とされる」ということを頭の中の問題として、抽象的に考えたのではありません。抽象的でなく、実際的にキリストと出会って与えられた信仰の奥義です。

  確かにキリスト教の信仰は信仰義認という言葉で表されます。しかし信仰義認は抽象的なものではありません。それは、十字架の主の身代わりによって、滅びる筈の罪のこの身が救われたという、涙の出るような現実的な喜びであり、ありがたい、実際的経験です。それが信仰義認という抽象的な言葉で言い表されているのです。

  これはパウロが8節で、「私の主キリスト・イエスを知ることの余りの素晴らしさに」と語ることからも分かります。「キリスト・イエスを知ることの余りの素晴らしさ」です。信仰によって私たちを義とする、素晴らしい方に出会ったのです。これはダマスコ途上での復活のキリストとの出会いを指していると考えて間違いないでしょう。

  パウロのキリストとの出会いは、高価なナルドの香油を注いだ罪の女の出来事に似ているかも知れません。非常に高価なナルドの香油をイエスの頭や足に注いだ罪の女は、なぜこんな無駄遣いするのかと弟子たちからたしなめられましたが、どんなに叱られ、咎められ、侮辱されても、イエスの足もとに留まり、泣きながら香油を注ぎ、髪の毛でぬぐうことをやめようとしなかったと言うではありませんか。彼女が涙を流してそれをするのは、キリストから誰よりも多く愛され、赦されたからです。その余りに素晴らしい愛の経験が、溢れ出る愛となってキリストの葬りの準備となる行為となって現われ出たのです。

  パウロは別の手紙で、「福音を告げ知らせないなら、自分は災いである」と語り、「そうせずにおれないからだ」と述べ、「福音のために、私はどんなことでもする」と書いていますが、それは、今述べたように、他でもないキリストの際限のない愛に実際的に触れたからです。

  8節で、「キリスト・イエスを知ることの余りの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています」と書いていますが、一個の人間として神の愛に真に出会った者は、そこまで情熱を掻き立てられることがあると言っていいでしょう。

  その情熱がパウロをして、「キリストと、その復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかり、何とかして死者の中からの復活に達したい」と書かせたのです。

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  もう一度問います。なぜでしょう。彼は今獄中にいて、「私の血が捧げられる」と書くほどに死の危険が迫っていたからです。彼はだから、たとえ自分は今獄中で命を落とすにしても、キリストの復活の力を知る者として、ぜひキリストの苦しみにも与からせて頂き、その死の姿にあやかって、何とかして死者の中からの復活に達したいと書いたのです。

  キリストの憐れみを深く深く味わっているゆえに、キリストだけに苦しみを負わせるのでなく、自分もその苦しみの一端を負い、キリストの苦しみの足りない所をその身で補いたいと願っているからです。コロサイ書にはそういう言葉も出てきます。これはパウロの傲慢ではありません。

  むろん死者の中からの復活は神が与えてくださるのであって、人間がそれを奪い取れるものではありません。その意味では、神様に一切を委ね切っていいのです。

  しかし、その委ねた安らかな平和な信仰は、キリストの愛の尊さ高価さに触れれば、たちどころに、何とかしてキリストの死に報いたいと言う信仰へと、動的な熱情的な、キリストのために血を流したいという信仰へと転換することがあるのです。

  言い方を変えれば、私たちは死者の中からキリストによって復活させていただけるのであれば、その余りの素晴らしさゆえに、キリストに何として報いようかと思わざるを得ません。私たちは、キリストに対して報い難き血潮を受けていますが、報い難いがゆえに一層そう思うのです。

       (つづく)

                                  2009年11月15日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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