教会とは (上)


              レマン湖から満々と水をたたえて流れるローヌ川の中に堂々と立つ建物。
  
  
  
  
                                             教会とは (上) 
                                             Ⅰコリント1章1-9節


                                 (1)
  今日は「教会とは」という題で、コリント前書の挨拶文からご一緒にみ言葉を聞こうとしています。ここは、先程お読み下さいましたようにコリントの信徒たちへの挨拶ですが、内容を噛みしめて読むと、キリスト者とは何か、教会とは何かのエッセンスが詰っています。

  先ずパウロは自分を、「神のみ心によって召されてキリスト・イエス使徒となったパウロ」と紹介し、コリントの信徒たちのことも、「召されて聖なる者とされた人々」と書いています。

  キリスト信者とは、神に召された人々、キリストに呼び集められた人たちだということです。また、神に呼ばれたのは5節にあるように、「キリストに結ばれ」て生きるためであり、9節にあるように、「主イエス・キリストとの交わりに招き入れられ」るためとあります。

  また8節では、「主も最後まであなた方をしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にして下さいます」とありますから、キリストの日すなわち終末の日に備えて、キリストと交わり続ける中で私たちを救いへと整えてくださると語っています。

  これは序文ですが、私たちが信仰に招き入れられてから、生涯キリストに結ばれて生活し、やがて終末の救いに至るまでの、壮大な救済の道が語られていると言ってもいいでしょう。

  更につけ加えますと、2節で「至る所で私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めている全ての人と共に」と書かれ、続いて「イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります」と述べられます。

  キリスト教徒は、一人で生きるものでなく、主のもとに共に生きるものです。後の方では、「神の家族」という言葉も出てきますが、キリストを頭とする神の家族として共に生きる者です。その関連で、今日の次の10節で、「兄弟たち、あなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と勧められていくのです。神の家族が固く結び合って、神の栄光を現わしていく。それが「共に」生きる意味です。

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  さて、新約聖書は元はギリシャ語で書かれていますが、ご存知の方も多いでしょうが、教会という言葉はエクレシアという言葉です。この言葉は新約聖書に100回以上出てきます。ですから、聖書の重要な言葉の一つです。余り知られていないのは、エクレシアという言葉は、旧約聖書ギリシャ語訳(セプチュアギンタ)でも100回以上出てくることです。

  ただ、旧約聖書ギリシャ語訳は神の民の集団や集会を意味していますが、新約聖書ではエクレシアは別の意味合いを強く持っています。その意味合いが大事です。

  これは講演でなく説教ですし、いつもの夏期集会のように1時間半もお話しできませんから、色んな事をはしょりますが、使徒言行録は教会の誕生とその発展を書いていると言われます。しかし私は初めてこれを読んだ時、教会の誕生を書いているとは思われませんでした。6章まで行かないと、教会という言葉が出てきません。8章になってやっと本格的に教会という言葉が出てきます。

  ペンテコステによって存在するようになった共同体は、教会とは呼ばれず、単に「信者達の群れ」と呼ばれるだけなのです。これはギリシャ語でプレーソスという言葉です。これは厳密な意味でのエクレシア、教会ではありません。当時エルサレムに存在していた会員規則や宗教儀礼や指導者を持っていた諸団体もプレーソスと言ったのです。

  電話帳を見ますと、天理教も教会と言っていますし、仏教会というのもあります。立正佼成会も教会と言っているようです。これらはそれぞれ会員規則や宗教儀礼や指導者を持っていますから、エクレシアでなく、プレーソス、諸団体であって教会ではありません。でも教会と名乗っているのは、教会とは何かを知らないからです。

  初代教会では、このプレーソスという言葉をエクレシアという言葉を併用していましたが、やがてプレーソスという言葉は使われなくなり、エクレシアだけが使われるようになりました。

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  では、キリスト教は何を強調することによってエクレシアを使うようになったのでしょうか。そこに、今日のコリント書の著者パウロの関与があります。彼はキリスト教会を激しく迫害するユダヤ教徒でした。彼の迫害が使徒言行録8章に出てきますが、やがて復活のキリストに出会ってキリスト教徒になり、9章からエクレシアという言葉が頻繁に出るようになります。そして、彼の手紙ではエクレシアという言葉が非常に多く出てきます。

  これはむろん、パウロの趣味の問題ではありません。この言葉には、呼ぶ、呼び出す、召し出すという信仰の重要な意味があります。パウロユダヤ教徒で教会の迫害者でしたが、復活のキリストに呼ばれ、キリストを証しする者として召し出されたのです。それが決定的なことでした。暗い闇の世界から、罪の世から召し出されたのです。贖い出されたのです。

  初代教会時代の一般の人たちがエクレシアという言葉を初めて聞いた時、これはとても新鮮に響いたそうです。心躍る、美しい言葉であったようです。キリストに呼ばれて、自分がこれまでいた闇の世界に、決して消えぬ光が輝いたわけですから、これほど大きな喜びはありませんでした。

  皆さんの中に、青年時代、憧れの異性から声を掛けられて、心をときめかしてデートした記憶を持つ方もあるかも知れません。私のような年齢になると、二度と戻らぬ春を実感します。旧約聖書に、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過せ」とあります。本当にそうだと思います。しかし最近は、若い女性から声を掛けられて、心躍って、暫らくその人と過すうちに何百万円も巻き上げられ殺される50代の男性たちの怪奇事件が起っています。その年齢になって、心躍る、美しい言葉に易々と心ときめかしちゃあいけません。それは、情欲に目がくらんだに過ぎませんが。

  それはそうとして、西暦1、2世紀の人にとってエクレシアという言葉は心躍る、美しい言葉であったようです。暗い人生を歩んでいたが、永遠なる神から呼ばれたのです。復活のキリストから召し出された喜びに打たれました。そのために、プレーソスという言葉は使われなくなり、エクレシアという言葉が使われるようになったのです。

  私が九州にいた頃、隣りの教会に婦人牧師がおられました。その方は、生後間もなく高熱を出して、死を宣告された方でした。治っても短命で生涯「白痴」だと言われたようです。お父さんは、驚くほど早い昇進で奄美の島から東京に抜擢され、3つの会社の社長をしていました。ところが病気で49歳で亡くなります。病気中に関東大震災があり、会社は助かったのですが、いつの間にかお父さんは訴えられて一家は財産をすっかりなくし、貧乏のどん底に突き落とされ、お父さんは無念な中で死んで生きます。しかも父の死の翌年火事で家も失いました。それから、優秀な兄を25歳で病気で亡くし、更にその兄よりももっと優秀で友達の多かった姉をまた病気で23歳で亡くします。こうして母と、病弱で、勉強の出来ない(と言われ)、友だちのいない、先生のお荷物と言われて育った自分が残ったのです。

  人の人生は容易ならぬものがあります。

  ところが、18歳の時キリスト教に出会ってお母さんと一緒に洗礼を受けます。そして次第に変えられて行くのです。

  ある日、お母さんが教会に行き、自分は病気で寝床に就いていましたが、ヨハネ9章の生まれつき目の見えない人の記事を読みました。弟子の質問に、イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人の上に現れるためである」と答えられました。

  そこを読んで、「神の業が現れるため」という言葉が目に飛び込んで来たのです。電撃に打たれたようにこの言葉に釘付けになります。

  「神の業が現れるため」と言われたこの人は、生まれつき目が見えない。キリストにそう言われたこの人は、生まれつき目が見えない。それが心に突き刺さって、そこから一瞬ひらめいて、生まれつき病弱で、皆のお荷物である自分こそ、生まれつき目の見えない人間である。そう思ったそうで、イエスが「神の業が現れるため」と言われたのは自分だったと思ったのです。一瞬の電撃が走りました。直ちに、「ハイ」と言って、婦人牧師になる決心をしたそうです。

  人間って面白いですね。暗闇の中からキリストに召し出され、心躍らんばかり、喜びをもって応答していかれたのです。かなりの勉強をされたのでしょう。やがて戦前の青山学院に入り、卒業して牧師になって行かれました。

  初代教会において、エクレシア、神によって召し出された者という言葉はそういう美しい、心躍る言葉だったのです。牧師だけでなくキリスト者もそうです。

  イエスは羊飼いの譬えを語られました。その譬えの中で、羊飼いが羊たちの名を呼んで連れ出すと語られたことも、エクレシアという言葉が好んで使われる背景にあります。

         (つづく)

                               2009年11月8日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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