愛は多くの罪を覆う (上)


                    ジュネーヴの聖ピエール教会の聖歌隊席の彫り物
  
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                                              愛は多くの罪を覆う (上)
                                              第Ⅰペトロ4章7-9節


                                 (1)
  先ほどの聖書に、「万物の終りが迫っています。だから、思慮深く振舞い、身を慎んで、よく祈りなさい」とありました。普通なら、万物の終りが迫っているから、恐れおののきなさいと言いたいところでしょうが、「思慮深く振舞い、身を慎しみ、よく祈れ」と語るのです。

  キリスト教信仰は理性的です。落ち着いたものです。ルターが、「たとえ明日終末が来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」と言ったように、こういう所に、聖書の信仰の健全さがにじみ出ています。

  私は、こういうテゼ共同体の歌を訳したことがあります。「(来たりたもう。)天は喜び、地は躍れ。主は来たりたもう。主は来たりたもう。来たり-たもう」(歌う)。これは黙示録18章20節を歌ったものかと思いますが、この短い歌は、神の一筆書きのようなタッチで、世の終わりという福音のメッセージを鮮やかに歌っています。

  万物の終わり、キリストが再び来られる時は、恐怖の時でなく喜びの時であるということです。人の涙を拭い取って下さり、もはや悲しみも労苦も嘆きもない。渇いている者は命の水を価なしに飲むことが出来る歓喜の時です。これは黙示録が告げている福音でもあります。

  そういう喜びまた希望の時が迫っているから、「思慮深く振舞おう。身を慎み、よく祈ろう」と呼びかけています。私たちは難儀なことがあると、あの人ならどう考えるかと考えたりします。教会のあの人ならどう考えるだろうかと思って、実際にその人の意見を聞いたりする場合もあるでしょう。思慮深い振舞いは、キリストのみ心を探る所から生まれる振る舞いです。ですから、キリストならどうされるかを考えると、思慮深くなります。良い友がない方はキリストを友にして考えてみて下さい。そうすればあなたの歩みは確かなものになるでしょう。

  白十字特別養護老人ホームに89歳のAさんという方がおられます。87歳で、老人ホームにおいて洗礼を受けられました。だいぶ前に脳腫瘍の大手術をされました。もうダメだと医者から言われながら手術が成功して、九死に一生を得られた方です。Aさんは私に、手術の傷跡を見て欲しいとよく言います。見ると、切開した10数センチ程がへこんでいて、頭がかぼちゃのように凸凹になって、傷跡が恐ろしいほど生々しく残っています。

  Aさんは、毎日、必ず「主の祈り」を唱えて感謝して眠るそうです。よく私に、「神様は私を造られました。とすれば、必ず最後までしっかり持ち運んで下さいます。責任を取って下さいます」と言われます。身体を引きずって、調子の悪い時も聖書の集いにほぼ毎回、喜びをもって出席されます。

  主は来られるのです。「主は来たりたもう。だから天は喜び、地は躍れ。」私はこのような喜びの信仰を持ち続けたいと思っています。

                                 (2)
  さて今日の中心聖句は、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい」です。

  私たちは一日を振り返って、時に失敗を悔やむことがあります。皆さんはどうでしょうか。また、自分には寛大で、人の失敗には厳しく当ったことを恥ずかしい思いもします。自分のつまみ食いは笑って済ませても、人のつまみ食いは絶対赦さないって事がありませんか?あの人は、あんな顔をしていて、皆の目が届かないところではつまみ食いをする人なんだから、とか。あの人の品性は実に卑しいんだから。などと腐(くさ)してしまいます。自分のことは棚に上げて、人の事を言い立てるわけです。

  とにかく私たちキリスト者も失敗や罪を犯します。しかし、聖書はキリストに従う人が間違ったり、ヘマを犯したりすることを隠しません。隠さないこともキリスト教の健全さだと思います。しかし、神に救われた人がなぜ過ちを犯すのでしょう。どう考えたらいいのでしょうか。

  今日の第一ペトロは、この問いに直接は答えていませんが、人が失敗をし、過ちを犯して勇気をすっかりなくす場合にも、それを乗り越えて前進する道を示しています。それが8節です。

  「何よりも先ず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」このようなあり方は人を励まし、希望を与えるのではないでしょうか。

  しかし人間は、なぜか咎め易いものです。自分の仕方と違うことをする人には、どうしても咎めがちです。夫婦でもそうです。結婚間もない頃は、互いの違いはすばらしく感じました。あの人ってこんな風にするのよ、おかしいでしょ、なんて、得意そうに友達に自慢していますが、20年、30年経つと、いつまで経ってもこうなんだからとか、まだ改めないのよとか、あの人とは性格不一致なのよとか言って、顔を見れば咎めているっていうことはないでしょうか。一緒に旅行にいけない夫婦というのはざらにあります。

  ペトロはだが、咎めるのでなく、「何よりも心を込めて愛し合いなさい」と勧めます。咎め合うあり方から、心を込めて愛し合うことへの方向転換です。

  「心を込めて愛し合」おうとすれば、相手がなぜそうするのか、相手の気持をもう少し聞こうという態度になるでしょう。聞くうちに、自分の誤解に気がつくことになるかも知れません。「心を込めて愛し合いなさい」という勧めに従えば、相手をもっと理解しようという気持ちが働きますから、咎める気持ちにブレーキがかかるでしょう。

                                 (3)
  「愛は多くの罪を覆うからです」とも語ります。むろんこれは、私たちが人に要求するものでなく、自分に言われているものです。では、愛はどのように間違いや罪を覆うのかと問うでしょうか。だが、「どんな仕方で」ではなく、多くの罪を覆う愛が私たちに命じられているのです。

  愛は罪を暴(あば)くのではなく、覆います。愛は罪を暴くのでなく覆うということに心を留めたいと思います。罪を覆うと言っても、罪を隠すのではありません。隠すのでなく、罪を鎮めるのです。

          (つづく)

                                  2009年11月1日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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