思想でなく、活けるキリスト (下)


 聖ピエール教会の小礼拝堂で、丁度カルヴァンとこの教会の歩みについて講義をしていました。ちょっと拝聴させて頂きましたら、別れる時は互いに笑顔でした。 
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                                              思想でなく、活けるキリスト (下)
                                              フィリピ2章1-5節
  
  
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  パウロは、人間の間に力強く働く一致を破壊する力があることを見抜いています。時には悪魔的な様相さえ呈するほどの闇の力です。ですから、その破壊的な力以上に力強く働いているものによって、あなたがた自身が持ち運ばれていなければならない。イエスによって持ち運ばれていなければならないと言うのです。

  パウロは、これらの勧めをするに当たって、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし」があるのなら、と書きました。あなた方が、キリストによって幾らかでも励まされ、慰められ、生きる勇気を授けられているのなら、という事です。もっと直裁に言えば、あなたがキリスト者であるのなら、という事でしょう。そうなら、「利己心や虚栄心からするのでなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」て下さい、という事です。

  パウロはフィリピの人たちに、温かく愛情を込めて書いています。またフィリピの人たちの、パウロを慕う思いもあちこち書き留められています。両者の関係は、パウロが初めてフィリピに旅した頃にさかのぼります。

  私たちは先月、このフィリピの東400kmほどにある、イスタンブールという古代キリスト教の中心地で暮らすイタリア人夫婦を訪ねました。巨大なアジア大陸の西の端とヨーロッパ大陸の東の端が力任せにぶつかり、僅か500mの狭い海峡で接している。まさに両文化の接点となり、交流の場所となり、激しい衝突の場所、激戦地ともなった場所です。その地で古代キリスト教が栄えた面影が、1千年後の今もあるのを味わいました。丁度NHKの若い記者とも偶然に一緒になり、旅のいい思い出でした。

  パウロがしたのは単なる旅行でなく、伝道旅行です。しかも当時の原住民はキリストについて何ひとつ知りません。そんな町で伝道して生まれたのがフィリピ教会でした。

  その後フィリピ教会はパウロを絶えず支援しましたし、パウロの方もむろん彼らを励まし続けました。従ってこの手紙には、長く生活を共にし、理解し合った者たちの、親しさと遠慮のない言葉が散りばめられています。

  ここから知るのは、キリストの福音は、互いに、かつては未知であった者たちをどのように友人に変え、兄弟姉妹にし、家族同様に親しくして行ったかという事です。

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  しかし、親しくなればなるほど、私たちに必要なのは、「親しき仲にも礼儀あり」と言われるようなケジメです。

  キリスト教会の中で、そのケジメになるのは何でしょうか。それは、キリストとの関係で自らが先ず正されることでしょう。この「自らが先ず」という事が大事です。十字架の横軸を切断する縦軸です。人間の横の関係が、絶えず正され、新たに修正され、単なる仲良しクラブにならないように、キリストによって自らが砕かれ、悔い改めさせられることです。

  これは家族においても当てはまります。夫も妻も、自分が正されて出直すことが必要です。そうして、関係が活き活きして来ます。それは自分が先ずキリストの前に出て、砕かれることから始まります。

  今日は、「思想でなく、活けるキリスト」という題ですが、活けるキリストと日々出会っている人間であり、キリスト者であることです。日々、活けるキリストに出会っていれば、必ず活き活きします。

  キリスト教思想と出会うのではありません。思想は観念的な人間をつくりがちです。思想は、次第に頑固な思想の固まりになることがあります。キリスト教思想も例外ではありません。しかし私たちは思想でなく、活けるキリストに出会って生きるのです。

  私は今回、「信徒の友」という全国誌の「日毎の糧」欄に書いて驚きました。拙い文章ですが、全国から何人もの方が便りを下さいました。知っている方や知らない牧師たちからも頂きました。所沢で「九条の会」をしている人からも頂きました。横浜から礼拝にいらっしゃった方もあって、皆さんも驚かれたでしょう。

  一ヶ月に亘りお読み頂くものを書きましたが、そこで書いたのは活けるキリストとの出会い、交わりというただ一点だと言っていいでしょう。それが現在の日本の教会に大変欠けています。憂慮の気持ちも持って書きましたが、多くの反響があって、まだ残れる民が日本にいることを嬉しく感じました。

  とにかく、「思想でなく活けるキリスト」が一番大事なのです。この方は私たちを砕いて下さり、創り変えて下さり、人間の相互関係を新しくして下さるからです。

  「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり」があるなら、とパウロは書きました。すなわち、キリストが私たちにして下さったことを理解すればするほど、その愛を知れば知るほど、私たち人間の相互関係はキリストによって改善され、変えられて行くからです。

  だが、洗礼を受けていてもキリストに立ち帰らないなら、そうはなりません。利己心と虚栄心、また高ぶりも育って、もしかするとクリスチャンとは名だけで、始末におえない人になるかも知れません。

  しかし反対に、パウロがここに勧めたように歩むなら、キリストによって変えられて行くでしょうし、この後の15節に出てくるように、「邪まな曲がった時代の中で、星のように輝」くでしょう。

  私たちが自分を輝かさなければならないのではありません。キリストが、私たちを変容させて下さるのです。

  それだけでなく、神は、私たちを他者に向かって思い切って和解の一歩を踏み出す人になるように導かれるでしょう。相手がどう反応するか分からず、よい反応が来る保証はどこにもなくても、自分が和解の第一歩を踏み出すことへと、すなわち平和を創り出す人へと導かれるでしょう。

  「“霊”による交わり」とありますが、キリストの霊との交わりは、私たちを"霊"による交わりを創り出す人へと、そういう大胆な、勇気ある人へと私たちを創り変えても行かれるのです。パウロは他の手紙で書いています。「神が私たちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのである。」キリストの霊は臆病な霊ではありません。勇気をもって、新しい関係を創り出していくスピリチャルです。

  パウロは、フィリピの人たちが、そして私たちが、そのような活けるキリストの霊に出会い、目覚めて欲しいのです。

         (完)
                              2009年10月25日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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