苦難の先に見える希望


  ルソーの生家の前の石畳で幼児がお人形をもって遊んでいました。若いお母さんたちが少し離れたところでおしゃべりをしていました。
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                                              苦難の先に見える希望 (下)
                                              イザヤ6章9-13節
  
  
                                 (2)
  さて、そのイザヤに主は、「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るなと。この民の心を頑なにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めて癒されることのないために」と語られました。

  これは理解に苦しむ言葉です。頑迷な彼らが、悔い改めることが出来ないようにせよと言われるのです。理解したり、悟らせてはならない。悔い改めさせてはならないと、読めます。

  先ずできるだけ理解されるように語り、何度も悟らせるように語った後で、それでも頑固ならば突き放してしまいなさいと言うのならまだ分かります。ところが、「悔い改めて癒されることがないために」というのですから、南王国の頑迷さは神の目に相当なものと映っていたのでしょうか。確かにダビデ以来の長い王国の歴史は、そういう罪の歴史でありました。

  では、神は厳しい裁き主なのでしょうか。私たちが人を裁く場合のように、怒った目をして頑固な罪人を睨みつけておられるのでしょうか。

  そうではなく、神には別のご計画がおありだからです。それは遠大なご計画です。アブラハムモーセ以来、いや人類の祖のアダム以来、これまでの仕方では人間の問題は解決されません。そのために今、全く別の手段、非常手段を取ろうとされるのです。神の摂理のみ業は人間の思いを越えたものがあります。

  そこでイザヤは、「主よ、いつまでなのですか」と尋ねます。すると主は、「町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで」と語られました。

  言い換えれば、徹底的に国が滅び去るまでという事です。しかも、大地が荒廃するほど、長い年月が経過するまでです。罪が溢れて、終りまで行き着くまでと言ってもいいでしょう。罪をなすままにさせ、その終局まで行きつかせよとも解釈できます。

  12節はそれを裏付けています。「主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられた所が多くなる。なおそこに十分の一が残るが、それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように」とある通りです。

  徹底的な滅亡です。東京の大空襲後、板橋からも東京湾が見えたと言います。Aさんの常盤台辺りからもご覧になれたでしょうか。徹底的な空爆を受け一面の焼け野原になりました。戦争の恐ろしさ、また近隣諸国に行なったわが国の侵略、残虐行為も決して忘れてはなりません。

  先週、牧師館に泊まっていた、台湾の若い女性歴史家のことをお話しいたしました。東アジアを総合的に研究しようという意欲的な研究者で、ロンドンで博士号を取ろうとしています。彼女と話をしていて、日本の若者たちは侵略の歴史を十分学校で教えられていないことをよく知っていました。いくら侵略の歴史を隠しても、近隣諸国の人たちははっきり知っています。

  私たちが犯した過ちを知ることは、自虐的な歴史観を持つことではありません。それを知らないことこそ、将来再び過ちを起こし、国を再び危険に陥れるようにするでしょう。それこそ国を滅ぼすこと、国を愛さないことです。

  「汝自身を知れ。」その時、他の人への説得力も増して行きます。

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  さて、南王国の徹底的な滅亡と荒廃が起こり、残った十分の一の人々も滅ぼされ、テレビンの木や樫の木の大木のように切り倒され、灰燼となります。

  「しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である」とイザヤは語ったのです。伐採された大木も燃やされたら灰燼になります。しかし表面は焼かれても、切り株は土の下で生きています。この「残った切り株」。そこに神のみ心があり、遠大なご計画があるというのです。それが今日の所でイザヤが強調して語ることです。

  すなわち、度重なる困難があり、迫害があり、全くの行き詰まりがあって、希望が絶えてしまう。だが切り株が残る。それが希望の根となっていく。この切り株こそ、民を最終的に救うことになるということです。

  「その切り株とは聖なる種子である」とはどういう事でしょう。7章に入ると、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉が出てきます。マタイ福音書のイエスの誕生の次第に出てくる言葉です。インマヌエルはイエス・キリストを指しています。それは「聖なる種子」です。

  この切り株、聖なる種子、キリストが人類の新しい希望となって世界に現われるという事です。そのことを信ぜよと言うのです。7章には、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」という言葉も出てきます。落ち着いて、神のご計画を信じるのです。信じ抜くのです。9節には「信じなければ、あなたがたは確かにされない」という言葉も出てきます。信じ抜かねば、確かにされないのです。

  9節は、「アーメンでなければアーメンとされない」と訳せます。アーメンと語って信じ抜く、そうしなければ確かにされないのです。

  信仰は知識の問題ではない、頭の問題ではないと私が言うのはそこです。アーメンと全身全霊をもって告白する。その時確かにされるのです。

  イザヤは、キリストの誕生を預言したのです。700年後に生まれる方の預言です。700年は長いでしょうか。

  人類の長い歴史からすれ700年はほんの一瞬です。その一瞬を、「切り株が残っている」と、落ち着いて信じ抜く。これが人類の暗黒の闇に輝く希望の光になります。このように、預言者イザヤは大きな視点で人間の歩みを見たのです。

  「苦難の先に見える希望」。私たちは苦難に負けてはなりません。苦難に埋没してはなりません。苦難の中で近視眼的に、悲観的に物事を見てはなりません。大きな視点で、長いスパンで物事を見る必要があります。

  「苦難の先に見える希望」とは、苦難の先に希望を見ようとする意志を持つことでもあります。失望させる言葉や悲観的な言葉は容易に出てきます。その中で、「切り株が残っている」じゃあない、と語ること。希望の聖なる種を見つけること。希望が見えない中で、希望を見出す目を持つこと、それを見出す勇気を持つこと、それが今日ほど必要とされている時代はないと思います。

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  キリスト教の宣教、伝道の手は世界の様々な所に伸びています。イエスが、徴税人や罪人の中に入って福音を語られたのですから、それに導かれた弟子たちも色んな所に入って行きました。

  テゼの手紙から、バングラデシュキリスト者であるブラザーたちが最も貧しい人たちのスラムに入って、子どもクラブを作って活動をしているのを読みました。クラブは、「王様と女王様たち」という名前です。スラムの子ども達を、王様、女王様と呼んでいるんです。子どもたちが50人ほど来ますが、彼らは1枚のシャツと2枚のパンツしか持っていないということでした。それ以外何にもないのです。女の子は、その他に薄い上っ張りを持っているだけです。でも、そこでは王様であり、女王様として迎えられています。

  彼らは親がいなかったり、いても父親は飲んだくれであったり、母親は1歳の子どもを置いて駆け落ちしたり、6ヶ月以上学校に通った子どもは殆どいません。家のない子は5、6歳頃から紙や金属の回収や乞食をして、他の子と路上生活をして暮らしています。

  クラブに来る12才以上の子どもたちは独自の集まりをして、歌を歌ったりゲームを楽しんだりもしますが、各々この24時間にしたことを話して分かち合うのだそうです。自分や友だちを振り返る時です。

  すると彼らはどんなに危険な場で生きているか分かります。12、3歳で大変な暴力の場に遭遇したり、命の危険にさらされたり、紙や金属の回収で得たお金を巻き上げられたりもします。また盗んだお金を盗まれたりもすると言います。むろん盗みは強く諌めますが、中々成功しません。年齢が上になって出くわすのは何だと思います?売春の危険です。するとエイズが目の前に迫っています。

  悪臭で誰もが顔を背ける、汚い場所に住む子ども達。将来に望みがない子供たち。「人間が卑しめられている」世界。彼らを相手に、彼らキリスト者たちが次の世代に夢を届けようとしているのです。

  それは、イエスにおいて「苦難の先に見える希望」を見ているからです。イエスなしには希望はどこにもありません。しかしイエスのご支配はどこにも届いていますから、そういう子どもたちと生きるのです。

  私たちは、こういう社会に勇気を持って入って行っているキリスト者が世界にあることを覚えると共に、私たちも「それでも切り株は残る」と聖書が語っていることに耳を傾けて、日常生活をして行きたいと思います。

       (完)

                             2009年10月11日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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