預言者イザヤが出会った真実


               ジュネーブの旧市街の中心近くにあるジャン・ジャック・ルソーの生家。  
  
                                  ・  
  

                                              苦難の先に見える希望 (上)
                                              イザヤ6章9-13節


                                 (序)
  先週は6章1-8節から、み言葉を聞きました。今日はその続きです。欠席だった方々もおられますから要点を申しますと、イザヤはウジヤ王が死んだ年に預言者として召命を受けます。

  ウジヤは実力のある王様で、農業に力を入れ南王国の安定に貢献した王でしたから、人々はその死を悼み、不安を抱きます。というのは北にアッシリア帝国が迫っていたからで、その不安な様子は、今日は取り上げませんが次の7章に出てまいります。彼らは人間に信頼を置いていたからです。むろん人間に信頼を置いていいのですが、人間に過剰に信頼を置いたのです。それでウジヤ王の死と共に、これからどうなるのかと大変心配します。イザヤも貴族階級の祭司でしたから、国内の事情に通じていたので、国はウジヤの手によって築かれて来たと信じてきました。

  ところが彼は、幻の内に、「高く天にある御座に主が座しておられる」のを見ます。その「衣の裾が地上にまで伸びて神殿いっぱいに広がってい」ました。

  すなわち、聖なる神のご支配が地上に達し、神殿いっぱいに満ちているという幻を見ます。言葉を変えていうなら、国の繁栄は人間の力によらず聖なる神の恵みの業であったこと、人の業であると考えていた自分こそ災いであり、聖なる神のみ前で「滅びるばかり」の存在であることを知るのです。神の恵みの完全性に接してイザヤは砕かれて、自身の不完全性を深く知ります。

  「私は汚れた唇の者。滅びるばかりの存在」であるという自己認識を持つようになります。誰かが問題であるというのでなく、先ず自分が「滅びるばかりの存在」であると言うのが彼の預言活動の根底に生まれます。それが彼の預言活動の足腰を強くして行きます。

  だが、彼自身が「滅びるばかりの存在」であることを知ったとき、同時に神の赦しを知るのです。セラフィムの1人が神殿のまっ赤な炭火を取って彼の唇につけ、「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と宣言されたとあるのがそれです。これは彼の生涯に、消えることのない印となります。彼は罪を焼き清められ、1人の預言者として立ち上がっていきます。神に滅ぼされ、神に新しくされ神の預言者に生まれ変わるのです。

  そして、神が、「私は誰を遣わすべきか。誰が私たちに代わって行くだろうか」と語られた時、イザヤは、「私はここにおります。私を遣わして下さい」と応じるのです。これは彼の預言者としての決意でありました。先週はほぼここまでお話いたしました。

                                 (1)
  さて、神が遣わそうとしておられる場所はウジヤ王亡き後の南王国です。当時の南王国はというと、イザヤ自身が先ず自分について「汚れた唇の者」という自覚を持ちましたが、この民も「汚れた唇」の民でした。

  では「汚れた唇の民」とは具体的にはどういう民か。その現実の姿を凝視すれば、底知れない数々の罪が見えます。今日は詳しく触れませんが、1章から5章まで、あるいはそれ以下で語られているのは、洪水のようにこの国に溢れる数々の罪の累積です。

  ウジヤ時代の繁栄の陰で、正義と公平が失われ、貧しい者や孤児ややもめたちへの無慈悲さ、富める者たちの高慢で、横暴で、無礼で、「緋のようにまっ赤な罪」です。財産には限りがなく、戦車には限りがなく、色んな偶像にも限りがないが、「人間が卑しめられている」社会です。

  年収何千万、いや何億円であってもいいでしょう。そういう人たちがいていいと思います。しかし、そういう人たちが貧しい人のために何かをしたり、純粋に社会のために貢献したりするのでなく、傲慢になって貧しい人たちを卑しめている。そこに問題があります。

  世界は何のためにあるのでしょう。物を生産し、経済力をつけ、ただ競争に勝つためでしょうか。人は競争に勝つために生まれたのでしょうか。どんな人間も卑しめられない社会を築くためではないでしょうか。能力のあるなしを問わず、助け合って生きるためではないでしょうか。家庭を見てください。親は立派でも、子どもはどうしようもないとか、子どもも親も優れているが孫がどうしようもないと言う場合があります。そういう場合に、みんなで助け合って生きて行きます。社会は家族の延長です。国も、世界の家族同様です。共に生きるものであるのが本当の生き方ではないでしょうか。「人間が卑しめられている」国は、どんなに繁栄しても神のみ心ではありません。

  南王国は公然と人間が卑しめられている社会でした。その中で神の言葉を語るのは、勇気のいることです。だがイザヤは、「私はここにおります。私を遣わして下さい」と語ったのです。

  自分に能力があるからではありません。そうではなく、「主の栄光が地をすべて覆う」という事実を知ったからです。主の手は短くはない。主のご支配は地上すべてに届いていること、神がおられることを知ったからです。神は天のみ座に座すだけでなく、その衣は地上に達していることを見たからです。

  それと共に、イザヤは民と、罪において連帯しているからです。民の唇が汚れているだけではありません。何よりも自分こそ、「汚れた唇の者」であるという強い認識を持っているからです。

  私たちが子どもを育てたり、教育したり、仕事の上司になったりする時に大事な一つの点は、自分も同じく失敗をする人間であり、あなたと同じ人間であるという正直な認識です。それが相手の共感を呼び、説得力を増します。上からものを言っていたんじゃあ、深い溝が生まれます。

  イザヤはそういう共通の基盤に立つゆえに預言者として召されたのです。

          (つづく)

                               2009年10月11日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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