あなたは強くされる (下)


   カルヴァンが活動したサン・ピエール教会。1536年、彼はジュネーヴに一夜のつもりで滞在したが、1564年5月27日、54歳で亡くなるまで25年余留まり宗教改革を行ないました。この教会は元々12世紀に建てられたものです。  
  
  
  

                                             
                                              イザヤ6章1-9節
  
  
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  彼は叫びました。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

  西暦1500年前後というのは、世界的な大変化を迎えた時代です。先ずアメリカ大陸発見があります。しばらくすると地球一周によって、地球は丸い球体だというという驚くべき発見がなされます。そして宗教改革もこの時代に起りました。集団の時代から個の自覚の時代が始まります。そしてこれまで考えられていた、太陽が地球の周りを廻っているのでなく、地球が太陽の周りを回っているという、驚天動地の世界がひっくり返る発見もこの時代になされます。天動説から、地動説の時代です。コペルニクス的転換というのが起ります。

  今日のイザヤが見た幻もそのような天動説から地動説への転換のような、劇的な神との出会いであり発見でした。彼の見方はこれまでとすっかり変わります。

  自分は世界の中心であると思っていたのに、自分が中心でなく神が中心であるという発見です。孫のAちゃんは、リンゴを切って出すと一番大きいのでないと嫌なんです。弟にも、お母さんにも小さいのを上げます。自分が中心です。しかし、いつか自分が中心でないということを知って驚天動地の経験をするでしょう。それを経験してくれなきゃあ困ります。

  イザヤの見方は単に変わったのでなく、まず彼は、聖なる神の顕現、栄光にみちた聖なる神の現臨に接して、「私は災いだ。私は滅ぼされる」という体験をしたのです。聖なる神の前で自分は何者でもなく、汚れた災いなる存在であることを骨身に沁みて知ります。

  「私は汚れた唇の者」と言っています。誰か人が汚れているとか、悪いとかと言うのではありません。先ず、自分こそ汚れていることの告白です。その自分の自覚があって、次に「汚れた唇の民の中に住む者」という告白が来るのです。環境が先ず悪いというのでなく、先ず自分の問題性の徹底的な自覚です。そこから彼は預言者活動をしていきます。ですから非常に足腰の強い預言者になっていきます。大預言者と言われるゆえんです。

  イザヤは神の聖なる顕現、また天使たちの歌う聖なる歌声に接し、神のご支配が神殿いっぱいに広がっているところから、神の恵みの完全性を、愛の完全性を一瞬にして悟ります。だが神の完全性の悟りは、同時に自分自身の深刻な不完全さの悟りでした。「災いなるかな。滅びるばかりだ。」前の訳は、そう訳しています。

  神殿の敷石の揺れよりも深い、自分の実存の根底からの揺れを経験したのです。

  これは、ルカ18章の自分は正しいと思っているファリサイ人の祈りでなく、胸を打ち叩いて祈った徴税人の祈りを思い出させます。彼は、「神様、罪人の私を憐れんでください」としか言うことができず、それ以上は言葉になりませんでした。彼は自分が救いを必要とし、癒しを必要とする人間であることを自覚して祈りました。

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  ところがイザヤは、自分が神から遠く離れた滅びるばかりの実存であると知ったとき、神の赦しも知ったのです。この神の赦しは、彼の人生に消えることのない印となって残ります。

  そしてこの変化は他の事柄にも及んでいきます。自分が聖なる神様の前に打ち砕かれた時、人を見る目も変化して行ったのです。

  神と自分との質的な差の余りの大きさに接した時、人と自分の違いの差は殆ど意味をなさない事を悟るのです。

  私たちもそうですが、このことを知るとき、他者への裁きの態度は焼き払われ、ついえ去っていきます。そんなことが自分に起るだろうかと案じるかも知れません。しかし神に目を注いでいくなら、災いをもたらす、イザヤの唇がまっ赤な炭火によって焼かれたように、私たちの罪も神が焼き払ってくださるでしょう。

  箴言は、唇の災いについて幾度も語っています。「嘘を言う唇は憎しみを隠している。愚か者は悪口を言う。口数が多ければ罪は避け得ない。唇を制すれば成功する。神に従う人の唇は多くの人を養う」などとあります。

  イザヤもその唇が問題でした。「私は汚れた唇の者。」唇が汚れているという事は、心の中のものが唇から出てくるわけで、そんな言葉を出す実存こそ汚れているという事です。そこまで彼は自分の汚れと不完全を問題にします。

  しかし、自分の罪に打ちのめされたとき、彼は、セラフィムの一人が火鋏でまっ赤に燃えた炭火を取り、自分の口に触れるのを感じるのです。また、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と宣言されるのを聞くのです。

  赦しの宣言。神によって受け入れられた体験です。これが先程申しました一生消えることのない印、神の憐れみの印となり、彼を支えました。

  それは同時にイザヤの新しい召命の始まりでした。それは自分が考えていたことより遥かに大きく広いものでした。これについては来週、ご一緒に考えたいと思います。

         (完)

                            2009年10月4日


                                      板橋大山教会   上垣 勝

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