しかり、アーメン (下)


  

                                               
                                              第Ⅱコリント1章18-20節
  
                                 (3)
  無論このような「然り」を私たち人間が語るのは極めて難しいことです。不可能だと思う人もあるでしょう。しかし、人間はこのような肯定が必要です。根本的な所から私たちを支持し、受け入れ、肯定してくれる人を欲しています。「然り、あなたはそれでよし。アーメン」と私たちに言ってくれる人です。

  私たちに対する、このような神の絶対的な肯定。それが神の愛です。神の愛は、都合で変わる脆(もろ)い人間的な愛でなく、絶対に変わらない、ぶれない愛です。パウロは、自分は計画を変更したが、自分の説いている神の愛は変わることは絶対にない。神の「然り」が同時に「否」となってぶれるものではないと語るのです。

  イギリスのあるエッセイストが、喪失体験を書いています。父親を癌で亡くし、同じ頃に夫と離婚し、ボロボロになって生きている。亡くなった人のためには、心の傷を癒すために慰めてくれる人があり、慰めの手紙をもらうこともあったし、葬りのために休暇を取った。だが夫との別れほど恐ろしいものはなかった。休暇も取れない、心がズタズタになっても休めない。傷を抱えたまま生活し、泣きながらうろつき廻り、眠れない日々の中で働き、気持ちが落ち着かず、まったく困り果てて生きていた。そういう意味のことです。

  離婚はどちらにとっても、自分も相手も全否定し傷つけるものだと思いました。「否」を突きつける。あなたはいらない。もしかすると、奴は地球上から消えて欲しい、という事だってあるでしょう。すると、あの人から、自分はそう言われた。自分は生きる値打ちがないのか。そんな事まで本気で悩みます。

  しかし離婚だけでなく、色んな人間関係で、これに似たことが社会で起っているのではないでしょうか。

  だが、神は私たちに「然り、アーメン」と語られるのです。あらゆる欠点を超え、あらゆる人間関係のしくじりを超え、長所や才能に関りなく、私たちを赦し、君はそれでいいと語って下さるのです。

  パウロは、「神は真実な方です」と語り、「神の約束は、この方において『然り』となった」と語ります。私たちの足元には、神の無条件的な『然り』が、無条件的な肯定が横たわっています。この「然り、アーメン」という神の肯定が、人に生きる勇気を与えるのです。

                                 (4)
  創世記1章に、神は6日間で天地を創造し、1日毎に、「神はそれを見て、よしとされた」と書かれています。そしてお造りになった全てのものをご覧になると、「それは、極めてよかった」とあります。

  この「よし」は神の絶対的な然りです。相対的なものではありませんし、全ての存在への「よし」です。私たちが造られ地上に誕生した時にも、その誕生において、この「よし」が事実的に語られているのです。「あなたは存在しなさい。存在してよい。」神の一人ひとりへの存在のお許しなしには、誰も地上に生まれて来ません。神が望まれ、私たちは地上に生まれるのです。

  私は20歳過ぎに洗礼を受けましたが、その後も、いつか神は私に愛想をつかされるのでないか。私の不信仰、心の醜さ、弱さをご覧になって、いつか私を突き放されるのでないか。かつて、そんな不安が私につきまとっていました。

  だが、パウロは「否」、そんなことはないと語るのです。なぜなら神はその独り子を世に送り、私たちに対する愛をお示しになったからです。その上、その独り子を十字架につけて、私たちの罪を贖うための身代わりにされました。ここに絶対ぶれることのない永遠の然りがあります。

  自分の命を誰かに与えたとしたら、それは自分の全てを与えたことです。キリストは全てを与え尽くされました。ですから、その愛は、限界を持ちません。無制限に、無条件に私たちを愛し、神の子として迎えられるのです。

  これが、「然り、アーメン」、私はあなたを受け入れ、よしとするという事です。

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  パウロは最後に、「それで、私たちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」と書いています。

  「それで」とは、神が私たちを受け入れ、義とし、愛して下さった。それで、という意味です。この愛のゆえに、私たちは今度は仲間に対して、「然り、あなたはそれでいい、アーメン」と語ることによって、神に栄光をささげ、たたえるのです。

  私たちが隣人に「然り」を語り、その人が存在することを支持する。そのことがとりもなおさず、神をほめたたえることになるのです。

  家庭で、職場で、色んなグループで私たちは隣人と生きています。それは神がお与えになった隣人です。その人は嫌な人かもしれません。だが、神を愛し、神をほめたたえるゆえにその人を受け入れる。その隣人を支える。寛大に迎え、その隣人に「然り、アーメン」、あなたは私の仲間だと語る。神をほめたたえるために、それを行なうとパウロは語ります。

  私たちの心の内側に、神の「然り」の声が聞こえる時、私たちは恐れから自由になり、幻想からも自由になり、真の現実に出会います。また神の「然り」によって肯定されるとき、自分は何者であり、何者でないかについても確かな根拠を発見するのです。

  うわつかず、高ぶったり、イヤにへりくだったりもせず、神に示された自分の真の姿と向き合いながら、人と向き合って行くことができるでしょう。

  今日、この世界で生きる時、まるで砂の上を歩いているように感じる人もあるでしょう。大変崩れやすく、歩いた筈の人生の足跡もとても消えやすくなっています。だが、神に出会うとき、私を肯定し、然りを言ってくれる確かな土台、頑丈な人生の基盤を与えられるのです。イエスにおいて語られる然りの上に、私たちの存在の根拠を置くなら、悔いなく人生を最後まで歩くことができるでしょう。しかも、この地球を僅かでも住みやすい所に変えて行くために働くことができるでしょう。この地球に自分が存在し、他者が存在する真の意味を知っているからです。

           (完)

                                2009年6月14日

 
                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ヴェズレーの見晴台から。)