しかり、アーメン (上)


  
  
  
  
                                              第Ⅱコリント1章18-20節


                                 (1)
  今日の聖書はちょっと分かりにくい箇所です。「然(しか)り、然り」とか「否、否」とか、私たちは普段余りこんな言い方をしません。それで、今日のところを読むと、何を言っているのかと戸惑うわけです。

  しかし、日本でも最近、あの人は決してぶれないとか、この人はしょっちゅうぶれてるっていう風なことを言います。ぶれるというのは柔軟だという事で、良い面もあると思うんですが、流行のようにぶれちゃあらないような風潮があります。別に人生の鉄則でもないわけで縛られる必要がないのですが…。

  パウロはコリント教会への訪問を予定していました。ところが予定を変更したのです。ぶれたのです。それをコリント教会の誰かが問題にしたのです。予定の変更ですからちっちゃいことですが、それが大きな問題に発展しそうになったのです。

  どういうことかと言うと、パウロという人間はコロコロと変わって信用できないという批判です。その声が大きくなったんです。その人たちはかねてからパウロに批判的だったのでしょうが、ここに来て批判を強めたのです。来るというので色々準備をしていたのに、こちらの準備の大変さも考えないで、勝手に変更するなんて、何ていう礼儀知らずの奴だ。

  彼は祈って計画を立てたのでなく、人間的な考えで計画したからこうなったんじゃあないか。信仰、信仰と人には言っているが、彼自身の信仰がおかしいんじゃないか。そういうところまで発展したんです。それだけでなく、彼の説いていること自体が怪しい。彼はキリストの正しい弟子なのか。12弟子ではなかった筈だ。直接キリストに会ったこともない。そういう人間が、自分は使徒だと名乗っていいのか。コリントの第1、第2の手紙を読むと、そんな所まで発展しそうになっていたに違いありません。

  まったく針小棒大に、誇張して批判する人たちが時々世の中にはいて、嫌になっちゃうことってありますよね。そういう人たちがコリント教会に入り込んで、パウロを強く批判したのでしょう。批判だけでなく、人を焚きつけ、扇動したわけです。人間の罪というのはそういう深刻さをもっています。私たちもそういうものをはらんでいる存在であって、キリストの救いなしにはどんな問題が起るか知れません。コリント教会でそんなことになると、教会自体がダメになります。

  それでパウロは、17節で、「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、私が計画するのは、人間的な考えによることで、私にとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか」と書いたのです。またそれに続いて、今日の所で、神は真実な方であり、私があなたがたに語った「然り」が、「否」に変わるという事は決してない。また、私があなたがたの間で説いたイエス・キリストが、「然り」と同時に「否」になるような方ではありません。「この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです」と述べたのです。

  繰返しますが、自分は予定していた訪問を変更したが、それで、私が説いていることまで変更する人間だとか、その信仰は怪しいとかいう批判はおかしい。そんなことを書いて、今日の18節以下で、私たちの神はキリストにおいて、「然り、アーメン」と、その約束を実現してくださった。ですからその救いの言葉は、恵みの言葉であり、決してぶれないものである。そう語ったのです。

                                 (2)
  人間は誰しも愛されること、そして愛することを望んでいるでしょう。そのために、誰かから愛されうるようによく見せようとしたり、実際に自分を高めようとしたり、愛することができる人になりたいと努力したり、そのためまたいらぬ背伸びをしたり、そのために人として成長したり、むろんごまかすこともあるでしょうし、そんなこんなで、煩悩というか、愛の思い煩いが色々起ります。

  愛とは感情でしょうか。結婚式場のパンフレットを見ると、さも愛にあふれた幸福な雰囲気が漂っています。もう一度結婚式をしたいって思う人もあるかもね…。しかし愛は感情ではありません。もっと深い真実なものです。確かな芯のようなものが中心にあります。無論芯だけでなく、そこにそっと情を添えることが大事ですが。

  夫婦が愛を演じる場合ってありますか。子どもの前とか、お客さんの前で仲良くしているのを演じる。そんなことも時にはあるでしょう。演じれるほどの間柄であるというのも大切かも知れません。だが、演技だけになるっていう夫婦はやっぱり問題でしょう。

  男女のことではありませんが、マルコ福音書1章に、らい病人、ハンセン病の人の癒しが出てきます。イエスは、その人に、「手を差しのべてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』と言われると…その人は清くなった」とあります。この出来事は3つの福音書に共通して出てきます。しかも、他は少しづつ違いますが、3つの福音書に共通していることは、「手を差しのべてその人に触れ」という言葉です。という事は、これがいかに大事かという事です。この「触れる」という言葉は元々、「結びつける、掴む、抱きかかえる、しばる」といった意味です。

  ハンセン病で重症になると、薬のない昔は、身体がずるずるに腐って膿(うみ)が出たり、鼻が取れたり、目が潰れたり、指が腐って落ちてなくなったりしました。ところで、イエスは、ハンセン病の人に単に手を差しのべて触れたというのじゃあなく、抱きかかえられたのです。人間の身体は腐るとウジが湧きます。この人はどうだったか書かれていませんが、イエスはこの人をご自分に結び付け、その人の深い悲しみをご自分のものとされたのです。誰も相手にしないです、そんな人を。でもその人を、イエスは一人の人間として受け入れ、深く憐れみ、愛されたのです。そのたどって来た人生はどんなに苦労に満ちたものであったかを理解し、彼が存在することに「然り」を語られたのです。誰も彼が生きて行くことを肯定しません。だが、神はあなたが生きることを肯定されるし、あなたは神の目に貴い存在である、と語って、彼を抱きしめられたのです。

  こうして、「彼は清められた」というのです。清められたという事は、身体の清めもあったでしょうが、それ以上に彼の存在が、その魂が神によって「よし」とされたという事です。

  これが愛です。確かさのあるまことの愛。人間を、その人格そのものを愛し、その人の辛いことも、悲しいことも、弱さも強さも知って受け入れ、支え、立たせて下さる神の愛です。

  パウロが今日の所で、「この方においては『然り』だけが実現したのです」と語り、「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となった」と語っているのは、このような内容です。

         (つづく)

                              2009年6月14日
  
                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ヴェズレーの裏通りから見た教会。)