キリストを生きる (上)


  
  
  
  
                                              ガラテヤ5章22-26節


                                 (1)
  今日の所に、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とありました。私はここを読むたびに、いつも心が穏やかに、平和にされます。これらは私が向かうべき方向だと思いますし、そこへ急ぎたいという思いに駆られます。不完全な者ですが、少しずつでも求めて行きたいと思います。

  「霊の結ぶ実」とあるのは、キリストの霊、すなわち神の霊に導かれて生きる時に現われて来るものです。今はまだぶどうの実はなっていませんが、もう暫らくすると小さな房に青い実がつき始め、秋には甘い実が実るでしょう。キリストに導かれて生きる時も、必ずそんな命あふれる実が現れると信じて進みたいと思います。

  あらゆる生活の仕方はその結果を持っています。生活習慣病とか言われる糖尿病などは特にそうです。生活習慣がそういう実を結びます。それと同じように、「肉の業」も当然その果実が現れます。それが、19節以下で、「敵意、争い、怒り、利己心、不和、仲間争い」であったり、「泥酔、酒宴、姦淫、わいせつ、好色」であったりすると書かれます。それは悪の華であり、悪い果実です。

  新約聖書には何箇所か、罪の表、罪表が出てきます。ここがその一つです。コロサイ書にもあります。そこには「不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」などがあげられ、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と言われています。貪欲かどうか知りませんが、この間近くで資産家の老夫婦が殺されました。朝早くからヘリコプターがその辺りを舞っていたので何かと思っていました。再婚同士の大変な資産家だそうですが、かわいそうな死に方をしました。極めて用心深い夫婦だったそうですが、奥さんは夜遅くまでパチンコ屋にいたと言うんでしょ。途方もない資産があって、抜かりないというのにパチンコなんかで人生を潰している。お金があっても使い道を知らない。もっと健康な生き方があられたんじゃあないかと思いました。

  ここでは、「肉の業」に対比して「霊の実」が言われているのです。これは単数形で書かれていて、聖霊の実は一つだということを意味しています。だが、それは一つですが、「愛、喜び、平和など」色々な側面、様々な顔や表情をもって豊かに現われると言っているわけです。

  「聖霊の実」として、ここに挙げられているものは全て、人と人を結びつける力です。不毛でも、孤立でもありません。これらは人間社会の中にあって、新しい絆を生み出す力です。聖霊は、キリストは、隣人や社会に希望ある未来をつくる、創造的な力を生み出して下さるのです。

  私はある書物を読んでいました。その人が住んでいるのは外国ですが、森に囲まれた、時に厳しい自然の姿が現われる場所のようです。しかしその地で、信仰をもって地に足つけて落ち着いた生活がなされていく時、「気候の変化、特に荒れ模様のときは、神への渇望を深めてくれるとても良い機会だ」というのです。「嵐の時は、そよ風を夢見、曇りの時は太陽の光に憧れ、乾ききった時期は雨を望むようになる。このようにして全てのものから神への憧れを学び取ることができ、何でも有難く思える」と書かれていました。

  心に平和と喜びがあると、どんな自然も天候も寛容をもって迎えることができる。悪天候をも友にするような、創造的な生活が聖霊においてできるのだと思いました。しかし心に平和と喜びがないと、自然との不調和も起るし、人間との争い、衝突さえ引き起こしてしまうのではないでしょうか。そういうことを、その本を読んでいて考えさせられました。

                                 (2)
  先週はこの聖霊を覚えるペンテコステ礼拝を守りました。キリストの霊である聖霊が、集まっている弟子たちの一人ひとりの上に留まった。彼らは一つの群れでしたが、個性的な一人ひとりに聖霊が降り、一人ひとりと個人的な、人格的な神との交わりが始まった、という事を学びました。

  そして今日は、そのキリストの霊、聖霊に導かれて生きる時、その結ぶ実のことが書かれているわけです。

  ここに語られる、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実…」などの聖霊の実は、すべて神の赦しから生まれて来るものです。神の赦しに与って喜びが生まれます。神の赦しに与ってはじめて、平和も寛容も、愛も、親切も、ここに書かれているものが皆、私たちの身に現われてきます。神の赦しが、私たちを他者との新しい関係のあり方に向かわせ、私たちを創り変えて、「寛容、親切、誠実、柔和、愛」といった、他者を尊敬し、大切にする、人間関係を改善する、希望をもたらすあり方へと変えていくのです。

  4月のイースターヨハネ福音書20章を取り上げました。そこで復活のキリストが弟子たちに現われ、先ず「あなたがたに平和があるように」と語られたこと、次に彼らに息を吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」と語られたこと、そして、「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」とおっしゃったことから学びました。

  その時申しましたが、弟子たちは、復活のキリストが現われた時、喜んだのではありません。咄嗟に恐れたのです。怖がって後ずさりしたのです。十字架につけられるイエスを捨てた彼らは、イエスの怒りを買い、責められ、裁きにあうと恐怖したのです。喜ぶどころではなかった。

  ところが、イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言われました。手にも足にも、脇腹にも深い傷を持つイエスが、傷について何もおっしゃらないばかりか、「平和があるように」と言われたのです。これは言葉を代えて言えば、「あなた方の罪を赦す」という宣言です。あなた方は私を捨てて逃げた。だがそれらはすべて赦すと言われたことです。この時、彼らは罪をことごとく赦されたことを知りました。罪の赦しとはどういうことかを初めて知りました。イエスの愛の深さを初めて経験したのです。これが、彼らに喜びと平和を授けない筈がありません。しかも、決して潰えることのない喜びと平和です。この時、イエスに赦されるという事がどういうことか、イエスの弟子であるという事か。その喜びが胸に湧き上がって来たでしょう。

  これが決定的な出会いになりました。この赦しが、彼らを赦す人にしました。本当の赦しに与って、自分たちも人を赦す愛の人にしたのです。他者と争うのでなく、建設的な関係を創り出す、寛容と善意の人に変えたのであり、誠実と柔和をもって人と接する人にしたのです。キリストの赦しに支えられる時、さらに自分への節制も生まれます。自己との正しい闘い、コントロールが生まれます。

         (つづく)

                               2009年6月7日

  
                                        板橋大山教会   上垣 勝


  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
 
  (今日の写真;ヴェズレーの教会で。)