聖霊の神 (下)


  
  
                                              
                                              ヨハネ16章5-15節

  
                                 (3)
  今日はこの後、墓前礼拝に出かけますから、もう一つだけ簡単に触れて説教を終りますが、8節以下に、「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。云々…」とあります。真理の霊である聖霊がそれらを明らかにされるのです。

  罪とは、単にルールや掟を破ったり違反したりすることではありません。無論そういうことも含みますが、聖書が語っているのは、もっと深い本質的な事柄での罪です。

  その存在が命の本質、存在の源泉である神から離れてしまっている。そのため、糸の切れた凧のようになってどこへ行くか分からない。神から離れているから、急に弱気が襲ったり、孤独が襲ったりする。神なしに、例えば経済の追求だけ、金儲けだけで生きている、或いは人間関係の細々したしたことだけで生きている。そのために精神的なその日暮らしのような、思い煩いが多くある。実際、神なしに、金儲けの経済的追求が行き過ぎて、今この世界的経済危機が起ったのではないでしょうか。

  根源的な、存在の根本的な所から離れて生きている。そこに罪の本質があります。

  ですから、掟やルール、律法を正確に守る人たちの中にも、罪は起ります。人には多く要求し、自分はそれを生きていない所にも罪があります。

  そういうことをキリストが送って下さる真理の霊、聖霊によって明らかにして下さるというのです。

  また、義について、真の義について明らかにしてくださる。どういう事かというと、真の義しさとは、獲得した義ではありません。奪い取った、学び取った義ではなのです。獲得した義からは、高ぶりが、偉ぶりが、高慢さは生まれます。自分が獲得したのですから、自分の手柄ですから。

  しかし真の義しさは、与えられた義しさです。私たちは息をして、生きています。それで、私という存在は自分で生きていると思っていますが、根本的なところではすべて神から与えられたものです。価なしに誰にも与えられる義、無償で授けられる義。あなたはそれでいいと肯定してくださる。そういう義が私たちの根本にあります。

  「義」という漢字は、面白いですね。下に我と書いて、その我が王になって、王が2つの角を出している。奪い取った、自己の義というのは、そういう角を着けていませんか。

  そして裁きです。無論これも真の裁きについてです。この世の中では決して決着が着かないことがあります。真意が曲げて取られたり、悪意をもって扱われたり、当人には責任がないことでも、責任があるかのように言われたり、そんなことが無数にあります。また最高裁判所が最終の裁きかというとそうではありません。最高裁判所で死刑の判決を受けても、その後無罪だったという場合だってあります。

  しかし真の裁きは、人の裁きを超えています。神の法廷の前で、この世の法廷も裁かれるでしょう。そこにおいて、最後的、究極的な裁きがなされるのであって、それ以外の裁きはすべて相対的な裁きです。主なる神は、神々をも裁く神であられます。

  それらを真理の霊である聖霊が明らかにして下さるというのです。ペンテコステ聖霊の降臨というのは、聖霊の神が一人ひとりに留まって、そういう真理を人格的に明らかにして下さる出来事であります。

               (完)

                                     2009年5月31日

  
                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーであったガーデニングの市で。)