聖霊の神 (上)


  
  
  
                                                
                                              ヨハネ16章5-15節


                                 (序)
  今日はペンテコステ礼拝です。イエスユダヤ人から苦難を受けて殺された後、3日目に死者の中から甦り、大変不思議な話ですが40日に亘って数々の証拠をもってご自分の復活を弟子たちに示し、彼らの罪を赦し、平和を与え、神の国について話されました。また、復活のイエスは、弟子たちと共に食事をした時、「あなたがたは間もなく、聖霊によって洗礼を授けられる」と約束され、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、…ユダヤとサマリヤの全土、また地の果てに至るまで、私の証人となる」と語られました。

  こうして、復活後50日目の五旬祭の日に、聖霊が一同の上に降って、彼らは聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに諸国の言葉で語り出し、「キリストの復活の証人」として活動し始めました。これが、2千年前の初代教会に起ったペンテコステの出来事でした。

  イスラエルでは、ペンテコステは丁度小麦の収穫を祝う祭の時です。日本ではお米が主食で収穫は秋ですから、秋に収穫の祭がありますが、向こうでは小麦が主ですから、今の季節、初夏に収穫の祭をします。すなわちペンテコステは実りの時、刈り入れの時、感謝の時期です。

  多くの方から、50周年記念の感謝の言葉を頂きました。スピーチのお礼状を出しましたら、それにも大変丁寧な感謝の返信を頂いています。私たちの思いを越え、神様が記念会を祝福し、恵みをお与え下さいました。丁度大塩先生のご引退の時と重なり、そういうスピーチも含むように期待してお願いしましたので、大塩先生ご夫妻にとっても大変いい記念になった様で、感謝されました。今日のペンテコステを前に、50年の実りの時、収穫の時、感謝の時を持つことができました。

                                 (1)
  使徒言行録2章を見ますと、ペンテコステの日に、聖霊は弟子たち「一人ひとりにとどまった」と書かれています。

  旧約聖書を見ると、モーセのみが神の前に立って、神の言葉を人々に取り次ぎ、人々の願いを神に取りなしました。しかし、キリストの霊である聖霊が降った時、「一人ひとりの上にとどまった」のです。モーセのような仲介者なしに、聖霊によって、直接神が彼らと交わりを持ち、個人的、人格的に神が出会って下さるようになったのです。旧約と新約の決定的な違いの一つがそこにあります。

  キリスト教は神との、個人的、人格的な出会いを大事にするのは、ここに由来します。ですから、個人的な交わり、すなわち神との人格的な交わりである祈りは信仰において不可欠ですし、祈りを欠いて信仰はありません。祈りに最も大いなる恵みが隠されています。

  むろん個人的ですが、「一同が一つになって集まっていると」、聖霊が一人ひとりに降ったのです。ですから、祈りの集まり、教会共同体の集まりは、他方で大変重要です。この両極があるから、キリスト教は大きな幅を持つことができています。どちらかに片寄れば、キリスト教はもっと狭いものになっていたでしょう。

                                 (2)
  聖霊の神は決して目立つ方ではありません。控え目で、私たちの目に留まりません。中には、押しのけて私が、私がって言う方がありますね。厚かましい、出しゃばりの。でも、このお方は私たちを押しのけて、私たちにとって代わろうとされません。私たちの教会には何人も慎み深い方がいらっしゃいますよ。と言うと、どなただろうと思われるかも知れませんが、聖霊はご自分を目立たせない方です。でも、私たちの存在を内側から支え、強くして下さる方です。縁の下の力持ちのような方です。

  それが、今日の所で、「私が去って行くのは、あなた方のためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなた方の所に来ないからである。私が行けば、弁護者をあなた方の所に送る」と、イエスがおっしゃった方です。この弁護者が聖霊です。私たちの内から支え、弁護して下さる方です。13節には、「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」とも言われている、真理を悟らせるお方でもあります。

  皆さんには、しっかり支えてくれる友だちはいらっしゃるでしょうか。どんな時にも支えてくれる友です。味方になり、都合が悪くても弁護し、肩を持ち、途中で見捨てない人です。二階に上げて梯子を取る人は多くいます。しかし、モミの木のようにいつも緑、いつも変わらず誠実と真実をもって尽くす裏切らない友です。逃げない人です。

  キリストは、「弁護者をあなた方の所に送る」とおっしゃいました。弁護者はギリシャ語でパラクレートスと言いますが、私たちの存在に繰返して、「イエス」を、肯定を語って下さる方です。私たちは社会に出るとしばしば不安に襲われます。弱さを感じ、自信を失いますね。しかし、そんな私たちを絶えず繰り返し肯定し、誰かが私たちを強く否定しても、心の底で、「私はあなたと共にいる」と語って、私たちの中に住んで下さる方です。

  一緒にいて下さる。私たちは、「一人ではない」と分かると、安心できます。勇気が湧きます。聖霊は私たちに平和を授け、希望を与え、喜びを満たして下さる神です。

  キリストは迷い出た一匹の羊の譬えを話されました。羊飼いは、一匹の迷い出た羊を探すために、99匹をそこに置いて見つかるまで探すのです。迷い出たのはお前が悪い、お前の責任だと責める。それがこの世の人の言い分です。しかし、キリストは見捨てられません。最後まで探されます。迷い出た人の存在の尊さ、命の重さをご存知ですから、他の人は、もうあんな奴は放っときましょうと言っても、キリストは探されるのです。長血を患った女性を探して救い、人格的に出会われたのも、そういう出来事でした。

  そしてキリスト復活後、キリストが聖霊を送られて、一人ひとりの心の内にお住み下さる。そういう出来事が起ったのがペンテコステです。

  今日極めて大事なことは、目には見えないけれど、神が私たち一人ひとりの中にお住み下さっていることを発見し、それを信じ、信頼することです。皆さんを愛して下さる神を信じ、その方が自分の内側に来て下さっていることを信じ、決して捨てない愛の神、キリストの霊である聖霊に委ね切って生きることです。

  あるキリスト者がこんなことを書いておられました。韓国の仏教修道場に行って驚いたのは、仏教の方々は、非常な努力と格闘をし、自我を捨てて無を悟り、大我に目覚め、それを覚醒して生きようと甚大な努力をしておられる。また、人生と世界について深い洞察をしようとしておられる。そのことに自分は敬服してしまった。

  だがその時、自分はキリスト者だから思ったのだが、彼らには個人的、人格的に出会って下さる神はいない。それでどうして真実であることができるのだろうか。無という、或いは大我という「無人格」なものを相手にして本当に忠実であれるのか。誠実であれるのか。自分の主観や解釈でコロッと変わるのでないか。信頼性があるのか。日本のキリスト者ではありませんが、そんなことを感じたといいうのです。

  しかし、私たちには、聖霊が私たちの内にお住みになっている。聖霊の神として私たちに出会って下さる。神に対して、「神様、主よ、あなたにお祈りいたします…」と呼びかけるお方を持っている。そういう方が存在される。この違い。無を相手にしているのか、それとも私たちの中におられる神を相手にしているのか。この一歩は無限の隔たりの一歩であると思う。そんな意味の事を書いておられました。(テゼ共同体、ブラザー・アロイスのペンテコステの黙想より。09年5月)。

  私たちが信じているのは、人が作り出したものではありません。客観的に存在される方です。無から作り出した思想ではありません。実在される方です。

         (つづく)

                                    2009年5月31日

  
                                        板橋大山教会   上垣 勝


  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
 
  (今日の写真;ヴェズレーのガーデニング市で。)