つぶやかず疑わない (上)


  
  
  
                                               
                                              フィリピ2章12-18節


                                 (1)
  毎回申しますが、フィリピの信徒への手紙は獄中書簡です。パウロは権力者の機嫌いかん、社会の動向いかんでは、バプテスマのヨハネのように、今日にも首をはねられるか、コロシアムで見世物にされライオンと戦わせられるかも知れない状況に置かれています。

  17、18節を見ますと、彼は少しも恐れず、むしろ喜びで満たされているのが分かりますが、しかしパウロの上に何が起るか知れない逼迫した状況も窺われます。

  しかし、そういう環境にありながら、フィリピの人たちに、「何事も不平や理屈を言わずに行ないなさい」と語り、「よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」なさいと、力を込めて勧めるのです。今日の箇所は、パウロの信仰の真骨頂を思わせる箇所の一つです。

  だが、彼は単に勧めるのではありません。彼自身が、不条理で不利な状況に置かれながら、自ら「神の子として、星のように輝」いて生きています。また、星のように輝いて生きているから、前回の2節であったように、あなた方も、「私の喜びを満たしてください」と願うことが出来たのです。

                                 (2)
  さて、彼は今日の最初のところで、「だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と語っています。

  従順という言葉が2度にわたって出て来ました。確かに私たちに逆らわない、従順な人というのは気持ちいいですね。従順な部下も気持ちいいですよ。さっさと仕事がはかどりますし。従順な妻もそうでしょうか。従順な夫はどうでしょうか。

  従順な子どもは気持ちいいです。2歳の子どもと生活して、つくづくそれを思います。若いお母さんたちは、きっと疲れるだろうなあと思います。自分の時間が殆ど取れないという苦痛。時間を無償で与えねばならないという苦痛です。

  ただパウロは、ここで、そういう自分の気に入る者を求めているのではありません。彼は、従順の根拠を、「だから」という冒頭の言葉で指し示しています。キリスト者の従順には、それ相当の根拠があるわけで、その根拠なしにはキリスト教的従順は出てきません。

  むろん、従順のみがキリスト教的な徳でもありません。反対に、断じて聞かない、断じて従わないという徳もあります。実際パウロは断じて信仰を曲げませんでした。そのような神以外には断じて屈しないことも、実はこの「だから」という言葉が指しているものによって、背後から支えられています。ただこの場合、何について断じて屈しないかが大事です。自分が間違っているのに屈しないのでは困ります。

  さて、その「従順」の根拠ですが、それは、前回の8節にあった「キリストの従順」という事実にあります。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であられたキリストです。しかも、この方は、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わ」なかったのです。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおびやかすことをせず、正しい裁きをする方に一切を委ねておられ」ました。ここに、キリスト教的な従順の根拠があります。

  従順がキリストに根拠を置くからこそ、パウロは、「私が共にいる時だけでなく、いない今は、なおさら従順でいて」下さいと率直に語ることが出来たのです。パウロに気に入られようとか、誰かの顔を立ててとかではなく、誰も見ていなくてもなされる従順は、神に根拠を持たなければ中々できるわけでありません。一時的にできても、率直に言えば、それはメッキであったり、猫かぶりであったり、結局は偽善です。

  またもし、パウロに対する個人崇拝的な集団を作ったとしたら、それはパウロの伝道の失敗以外の何ものでもなかったでしょう。パウロがいなくても、いや、自分がいない今は一層熱心になってほしい。でなければ、自分が労苦し、走ったことが、無駄だったという事にならぬとも限らないと、彼は16節で語っています。

  私も、永遠に副牧師でありたいと思います。教会の真の牧者はキリストお一人ですから、このお方にお仕えする副牧師でありたいと思います。

  14節の今の訳は、「不平や理屈を言わずに」となっていますが、前の訳は、「何事も、つぶやかず疑わないでしなさい」となっていました。

  従順のことではありませんが、例えばお掃除にしても、或いは、もっと詰まらないと見える雑用にしても、それを長く毎回一人でしていると、「なぜ、自分はこんなことをしなければならないのか」という思いが忍び込みます。今日は「つぶやかず疑わないで」という題ですが、そういうつぶやきが起こります。つぶやきと疑問。

  エデンの園の蛇が狡猾なのは、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」という言葉で、神のご支配にケチをつけ、疑問を起こさせようとしているからです。神はそこまで独裁的なのかと、暗示するのです。

  悪魔は神と人の間を裂きます。だがキリストは、神と人をつなぐことをされました。十字架に架かってまでして、人を神につながれました。そこに闇と光の差があります。

  いずれにしろ、私たちは他と比較して、つぶやきや不平、疑問などがよく起ります。気になると中々抜け切れないのが、悪魔にそそのかされたような原罪の罪を背負っている私たちです。

  しかし、キリストを根拠にし、キリストを目の前に置いて、キリストと対話しつつ、詰まらない雑用をもする時に、その雑用に意味が出てきます。直ぐには出て来なくても、そこにキリストがおられることが、次第にはっきりして来ます。楽をしている所でなく、苦労している人の所に、十字架のキリストは必ず来ておられます。

  そうなると、キリストの十字架の従順を一層深く理解できるようになり、キリストが身近になって、一層愛することができるように導かれます。試練こそキリストに導かれる道になります。

  雑用にも意味を見つけようとしたり、実際に立派な意味が現われて来ますと、それこそキリストを崇め、敬う大切な機会になります。そういう意味では、宝石は私たちの身辺に無数にころがっています。それをどう研ぐかが大事です。

         (つづく)

                                2009年5月24日

  
                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;アイスクリームと出た洋ナシのワイン漬けデザートが抜群でした。ヴェズレーで。)