創立百周年への第一歩を (下)


  
  
  
  
                                              
                                              マタイ22章34-40節
  
  
                                 (3)
  さてイエス様は、律法学者が「一番重要な掟は何か」と聞いたのに、「心を尽くし、精神を尽くし…」と、ただ一つの戒めだけを示されたのではありませんでした。非常に不思議ですが、一番重要なものを問われたのですから、ただ一つだけを言わなければならないのに、一つでなく、二つの戒めを語られました。これは、この二つが表裏一体になって一つであるからでしょう。2枚の紙を糊で張り合わせてみてください。1日おいて、張り合わせた紙を剥そうとすれば、必ず両者とも破れ、使い物にならなくなります。そのように神への愛と隣人への愛は一体であり、引き裂けないものであり、引き裂けば二つともダメになるからです。

  イエスは第一の掟、第二の掟とおっしゃいました。そのことから、神を愛することと隣人を愛することには前後関係がある、この前後関係は重要だとも言われることがあります。むろん前後はあるでしょう。しかし、第一の方が最初で、その方が重要だという事を強調することによって、二つで一体だとおっしゃるイエスの心から微妙にずれ、二つを分離してしまう場合があります。

  「隣人を、自分を愛するように愛しなさい」と、第二の戒めを、第一の戒めの後直ちに語られるのは、愛を通して私たちは福音を真に生きるものとなるからです。

  イエスの愛は、十字架の赦しにおいて極まります。愛は、赦しなしには働きません。愛が真に生きて働くには、赦しがどうしても必要です。

  また、人を赦すためには、相手に耳傾け、聴かなければなりません。聴くことなしには赦しも愛も起りません。今、私は聴くという言葉で聴診器の「聴(ちょう)」という漢字を思い描いて話しています。相手の立場に耳を傾け、相手の心に傾聴することなしには赦しは起こらないと申したいのです。

  実際、「聴く」という漢字を漢和辞典で調べて見てください。「聴く」という漢字は、「ゆるす」と読みます。漢和辞典を繰っていて、かつてそんな発見をして驚きました。自分はすっかり黙り、相手に耳を傾け、よく聴こうと傾聴してこそ、赦しは起ると古代の東洋人は考えたのです。また、相手への「赦し」の思いがなければ、「聴く」ことは始まらないのです。赦さなければ、心を空にして聴けません。キリスト教的に考えても、ここに深い知恵があります。知識でなく、真の知恵、悟りがあると言えます。

  いずれにせよ、イエスは神の愛と隣人への愛を表裏一体的なものとして答えられました。それが今日の聖書が語るところです。

                                 (4)
  私たちの教会は、1959年に信濃町教会の開拓伝道によって生み出されました。「世のためにある教会」を目指してこの地域に伝道されたのです。当時、一つの伝道所が生み出されるために、相当の産みの苦しみがあったと聞きます。そして、大塩先生が、「お言葉通り、この身になりますように。」お受けしますと、大学院を中途退学までして、潔く、神への応答をなさって始まりました。この決断的な応答がなければ、決して生み出されることはなかったと思います。

  当時、カール・バルトの和解論1-1が信濃町教会の長老であられた井上良雄さんによって訳され始めていました。伝道所が開設された1959年の6月に初版が出ました。ご存知の方は、カール・バルトの神学こそ、戦後日本の教会を最も力強く支え、導いた神学でした。この和解論の日本語訳12巻全巻は1986年に完結しますが、和解論の主張の一つは、教会は教会自身のためにだけあるのでない。「教会は世のためにある。」世のためにある時、教会は最も教会らしくあると、「教会の標識は何か」という事で述べています。このバルト神学が私たちの教会誕生と関係するのです。

  ただバルトは、1946年、戦後1年目にドイツのボン大学で、「教義学要綱」というのを講義し、その中で既に「教会の標識」について3つの標識をあげて述べています。第一の教会の標識は、イエス・キリストが統治されることです。どういうことかと言いますと、教会は絶えず聖書の説き明かしと適用に従事するものでなくてはならない。聖書が、表紙に十字架のついた金縁の死んだ書物になってはイエス・キリストの統治が眠っているという事になる、と言っています。

  先ほど、聖書の通読を強くお勧めしたのはこのことにあたるでしょう。眠った信仰者であってはならないというのです。それは教会の、キリスト者の第一の標識です。

  第二は、伝令としての奉仕であると語って、教会が、自分に奉仕することに尽きる場合には死臭が漂う。イエスは、「出て行って福音を宣べ伝えよ」と言われた。だから全ての造られたもの、「教会は世のためにある」ということだ。「世のためにあるのが教会だ」といいます。

  第三の標識は、教会は神の国という偉大な目標を持つということです。しかし、神の国という究極的な目標を持つゆえに、地上では日常的な業、この世の業に身を入れていくと説きます。神の国を指標とするから、隣人を我が事のように愛するのです。

  この第二の標識、「世のためにある教会」という理念で、信濃町教会が開拓伝道に乗り出したのが、私たちの教会でした。

  「世のためにある教会」。これは、「隣人を、自分を愛するように愛しなさい」というイエスの戒めに聴き従う教会だと言っていいでしょう。隣人への愛を通し、私たちは福音を真に生きる者となると申しました。そのために、私たちは人を赦すことが必要だとも申しました。それなしには、「世のためにある教会」であることも、世のために光を掲げることもできません。そして、赦すためには聴くことから始まることは既に述べた通りです。

  ですから、今日から100周年に向かっての第一歩が始まりますが、「世のためにある教会」という事、そのために私たちは、イエス・キリストによって統治されねばなりません。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしていかなければなりません。そして、聖書が机の上で死んだ書物にならず、日常的に手元で、目を覚ました聖書として私たちを養うために働き、イエス・キリストキリスト教会を統治して下さるように聖書の説き明かしを聞き、生活に適用するということをして行きたいと思います。

  イエスは、「律法全体と預言者は、この二つに基いている」と語られました。神を力いっぱい愛し、隣人を精一杯愛する。このことは律法全体と預言者。すなわち命の書と言われる聖書全体が、力強く私たちに勧めることです。

  むろん、神を、また隣人を直ぐに愛せないからといって心配することはありません。ただそれを求めるのです。うめきながら求める時、既に一歩が踏み出されています。そしてその時、見えないかも知れませんが、イエス・キリストが傍らに来て共に歩いてくださっています。このキリストは私たちの歩みを確かなものへと導いてくださるのです。

  直ぐに愛せなくても、イエスは私たちを見捨てることはありません。弱く、愚かで、低い者をも、既に救いのみ手で掬い取って下さっています。

          (完)

                               2009年5月17日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの夜明け)