創立百周年への第一歩を (上)


  
  
  
  
                                              マタイ22章34-40節


                                 (序)
  今朝は、創立50周年記念礼拝を迎えました。50年に一度のおめでたい日、祝いの時です。心から喜び、感謝いたします。50年というのは聖書ではヨベルの年と言って、解放の喜びを告げる年です。朝から、多くの方がお集まり下さったことも感謝いたします。

  箴言に、「人の心には多くの計らいがある。主のみ旨のみが実現する」とありますが、今日の最大の喜びは、この地に伝道所をつくり、福音の種を播いたのは神の目から見て正しかった。「神はこれを見てよしとされた」と、50年が経って、今、誰しも確信することができるからです。

  今日は美しい花を沢山生けて下さり、立派な花籠も送られてきました。50周年の記念は一つの節目のセレブレーションですから、これは美しく咲いた花の部分だとすれば、普段の教会生活は木の幹であり根に当たります。この根幹にあたる部分は地味ですが、50年間、私たちを支え導いて来たわけです。それで今日も、この信仰の根幹にご一緒に、暫らく目を向けたいと思います。

                                 (1)
  今日の聖書で、律法学者はイエス様に、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と問いました。するとイエス様は、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第2も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は、この2つの掟に基いている」と語られました。

  今日はみ言葉の詳しい解説をするつもりはありませんが、イエスが語られたのは私たちの信仰の根幹となるものと言っていいでしょう。神を、力を尽くして愛することと、隣人を、自分を愛するように真に愛することです。

  私たちの教会は、イエス・キリストの十字架と復活の信仰を大切にし、宗教改革を通ってプロテスタント教会として鍛えられ、歴史の中を歩んで来ました。その根本は「キリストのみ」、「信仰のみ」、「聖書のみ」といういたって単純な信仰です。救われるためには、キリストを信じるだけでいい。律法の業でなく、恵みによってのみ救われる。簡単に言えば、中世のカトリック的な伝統重視でなく、「聖書のみ」がまことの権威であるという信仰です。これは、信仰の中核への徹底的な集中であります。

  母親が病気で一ヶ月ほど預かっている2歳の子どもが、「ハイジ」のビデオが大好きで、毎日1時間半のビデオを2回見ることもあります。ご存知のように、ヨハンナ・スピリの原作は実に素晴らしい信仰の物語です。それを読むと誰しも、愛と信仰の素晴らしさ、祈りが聞かれないことの中でも示される、類いまれな信仰の格調高さに感動させられます。ところが孫が毎日惹き付けられて見ているハイジは、惹きつけられはするのですが、信仰の一滴すらありません。日本人が制作したものですが、信仰の部分は意識的にカットされたビデオです。原作を知る人は実に酷いと思うでしょうし、スピリさんが生きていたら、さぞガッカリするに違いありません。

  しかし信仰の根幹の部分をカッとされても、素晴らしいアニメになるのですから不思議です。贋物(にせもの)でなく真の信仰の根幹を持つことは何という魅力的な力を備えるものかと思わざるを得ません。

                                 (2)
  ルターが宗教改革の第1世代だとしたら、カルヴァンは第2世代に当たります。彼は、「ただ神の栄光のために」ということを重視しました。この言葉も、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」という信仰の中核の別の表現といえます。

  むろんこれは、私と神の関係が言われているのであって、あの人は「心を尽くしているか、精神を尽くしているか」と、他人の姿をそっと盗み見たり、他を裁くべき言葉ではありません。問題は私自身であり、神と自分との関係において、私が精一杯の力を尽くすかどうかということです。

  暫らく前に、九州の小さな教会を訪ねました。その時、50代後半の婦人にお会いしましたが、その方はこれまで少し離れた所にお住みでしたが、最近、今後は教会生活を中心に、最後まで生き抜こうと決意して、教会の近くに移って来られたと言っておられました。人生を、教会生活を中心に据えて設計しておられる。地方には、こういう得がたい一途な方々が時々教会におられます。これが、この人にとっての「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という信実を尽くす信仰だと思いました。賢そうな静かな方でした。表面には出ないが、内側に赤い信仰の火が、灰を取り除けると真っ赤に怒っている燠火のごとく燃えているように思いました。

  先ほど信仰の中核といいました。皆さん、暫らく目をつぶって下さいますか。一つお聞きしますから、目を閉じたままお答え下さい。失礼と思う方は、そのままで結構です。

  準備はいいでしょうか。旧新約聖書を1回以上読んだことがある方は、挙手ください。3回以上の方はどうですか。…挙手なさらなかった方の中にも、通読した方があると思います。

  最近ある会で、信仰歴も長く、キリスト教関係の色んな方面で活躍している方々に同じ質問をいたしました。ところが、肝心の聖書が殆ど読まれていないのです。驚きました。今も、実は通読した方が余りに少ないので驚きました。プロテスタント教会は「聖書のみ」と言いはします。しかし聖書が読まれていない。キリスト教の話は滔々とできる。しかし聖書を読んでいない。これは何でしょう。

  信仰の中核に集中して生きるためには、先ほども「教団信仰告白」で告白した、信仰と生活との誤りなき規範である聖書に養われなければなりません。今日は創立百年への第一歩を歩み始めています。教会の方はむろんのこと、他教会の方々や求道中の方々も、ぜひ今日を絶好のきっかけとして信仰の中核に入っていくために、聖書を通読していきましょう。一回通読した方は2回目の通読、3回目の人は4回目の通読となさってはどうでしょうか。

  この教会に、百回通読なさった婦人があります。その方のことは今日は触れませんが、午後にお渡しする記念誌に書いておられるその方の謙遜な文章をお読み下さい。百回も通読するというスーパー・ウーマンのような歩みを発揮なさらなくても、1回は通読したいものです。

  主の祈りで、「日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈りますが、これは肉の糧のことだけでしょうか。霊の糧も指すのではないでしょうか。私たちは日毎に肉の糧を頂くことなしには生活できないように、霊の糧なしにはキリスト者として生きることはできません。神の言葉は、私たちの信仰と生活を支える根幹であるからです。それを頂かないと、信仰が衰弱し、思い煩いははびこり、心の平和は曇ってきます。

  次の百年への第一歩を始めるとは、小さな一粒のからし種を、今日から播くことです。からし種には命があって、育つと4、5mもの木になり、小鳥たちが来て巣を作り、旅人たちは涼しいその木陰で憩います。

  一日に聞くみ言葉は僅かです。しかし、それが50年集まれば、必ず見えざる力を発揮するでしょう。信仰の中核への集中は、やがて必ず目に見えない力を発揮する筈です。

        (つづく)

                             2009年5月17日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの裏通り)