砂漠の中の豊かさ (下)


  

                                                                                          詩編63篇1-12節

  
                                 (3)
  さて、3節の「栄え」という言葉に目を留めましょう。「あなたの力と栄を見ています」とあります。「栄え」とは、ヘブライ語カーバードと言います。「満ち溢れること、豊富さ、あり余ること」などを指します。

  砂漠でどんなに渇きがあるにしても、溢れる豊かさを、有り余るほどの豊富さを今は「見ている」と、発見しているというのです。ダビデは逆境の中で、それを発見したのです。

  この豊かさの発見が、この信仰者の口に、賛美となって溢れ、3節以下の言葉になって表現されるのです。「私の魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。私の唇は喜びの歌を歌い、私の口は賛美の声をあげます。」何という突き抜けた信仰でしょう。逆境の中の恩寵、いや逆境の恩寵というべきでしょうか。

  先ほどのコリント後書12章に、パウロが持っていた一つのトゲのことが書かれていました。それは、傲慢にならないように、自分を痛めつけるため、サタンから送られた使いだと、彼は言っています。思い上がることのないように、この試練を授けられたと語ります。何という逞しい信仰でしょう。現実には、慢性の眼病だとも、人に恐れられる癲癇であったとも、またマラリアの後遺症であったとも言われます。

  癲癇というのは、知らない人には非常に気味悪く見える病気だと思います。先ほどまで普通だった人が、急にバタンと倒れ、意識不明になり、あぶくをぶくぶく吹いたりします。伝道者がそうなら、気味悪がられて伝道に差支えもあったに違いありません。気味悪さというのは、2歳半の子供がもう感じるもので、昨日妻が昼寝をしていたんですが、その顔を見ようとしないのです……。

  パウロのことに戻りますと、彼はそれが治るように何度も祈りました。だが許されなかったのです。祈る中で、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という言葉を聞いたのです。思いがけない言葉だったと思います。その結果パウロは、「私は、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。何故なら、私は弱い時にこそ強いからです」という発見に至りました。

  これは不毛の荒れ野で、満ち溢れる豊かさを発見したこの詩編の信仰者と同じと言えます。

  私たちは2才児の子どもを、60も半ばを過ぎ、やがて70歳にならんとしながら何週間も預かって元気でいられるのは、ただ事でないと思うようになりました。クタクタですが、本当に驚きです。それにしても、百歳と90歳のアブラハムとサラにイサクが授けられたというのです。赤ちゃんを抱き上げるのも苦労だったと思います。聖書に、なぜ腰痛のことが書きとめられていないのか不思議です。だが、「行き詰まりにあっても、神の恵みはあなたに十分である」、「弱い時にこそ強い」と言いますから、何か道があったのでしょう。私たちも2歳児と暮らして、人間とは何か、毎日新しい発見を与えられ、子育ての時には忙しくて見えなかった事を見付けて、荒れ野で豊かさを発見するような思いがけない恵みを授けられています。

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  6節の「口」という言葉は複数形で書かれています。舌なら、二枚持つ人があるでしょうが、まさか口を2つ持つ人はいません。これは、「満ち溢れるばかりの命」を与えられたことを強調するためです。声の限り、多くの口をもって賛美しますということです。

  2節の導入部分と、6節の喜びの歌、賛美の声を比較して見てください。そのコントラストに驚かされます。イエスの十字架の前で嘆き悲しむ女たちと、復活のキリストに出会って、大喜びで仲間に告げに帰ったマリアのコントラストに似ています。

  不毛状態が画期的に変わったのは、5節の言葉も暗示しています。私は、「命のある限り、あなたをたたえ、祈ります。」ほめたたえるということは、命を伝えることです。命を十分に生きて、あなたが私にお授けになった命を、あなたにお返し致します、という意味です。「命のある限り」とは、単に一生の意味ではありません。お授け下さった満ち溢れるものを、精一杯お返し致します、といっているのです。

  次に7節、8節で、「床につくときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過します。あなたは必ず私を助けてくださいます。あなたの翼の陰で私は喜び歌います」と語っています。

  「助け」という言葉は美しい言葉です。これはアダムを助けるイヴを思い出させます。神は、アダムを助け手としてイヴをお造りになったと書かれています。女性は男性の助け手、補助者である、アシスタントに過ぎないということではありません。「助け手」とは、響き合う者という意味です。美しい共鳴関係が成り立つためにアダムとイヴが造られたのです。家庭を持つのは、美しい音色で響き合うためです。

  ただ、わが家の響きだけは想像しないで下さい。音色でなく、もう騒音です。毎日、Aちゃんとのバトルです。妻とは限りなく美しい音色が響いて…。

  イエス聖霊について語られたときにも、助けという言葉をお用いになられました。ご存知でしょうか。前の訳では、「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせてくださるであろう」となっていました。助け主。これは聖霊のことです。慰め主、私たちの弱さにも響き合って慰めて下さり、私たちの脆い信仰を弁護して下さる方のことです。永遠に、共にいて下さり、絶対者なる神が助け手として送られるのです。

  ですから、詩編の信仰者が「必ず助けてくださいます」と歌ったことは、やがてキリストにおいて成就して行くのです。それが、助け主、慰め主、パラクレートス、聖霊が与えられるということです。

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  最後に10節以下に、「私の命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食となりますように…」とあります。陰府とは地獄です。地獄に落として下さいというのですから、何とも酷い言葉です。

  因みに69篇28節をご覧下さい。そこに、「彼らの悪には悪をもって報い、恵みの御業に彼らを決してあずからせないで下さい。命の書から彼らを抹殺してください」とあります。これも酷いものです。救いから除いて下さいという祈りです。他の所には、「私を陥れようとする者に災いを報い、あなたのまことに従って、彼らを抹殺して下さい」(54編)と書かれています。

  今日の63篇のように信仰深い人、神の恵みに深く触れた人が、何と荒々しい乱暴な言葉を吐くのでしょうか。聖書は何故このような言葉を書き留めているのでしょうか。
全くおかしいのではないでしょうか。聖書は間違っているのではないでしょうか。

  心高ぶる必要はありません。そうでなくて、聖書は正直なのです。光と闇が交じり合って、今も争っている世界に私たちがいることを決して忘れません。聖書は理想主義ではありません。ユートピアを語るのではありません。現実をじっくり見ます。それから目をそらしません。

  神様は、大海(おおうみ)のように、あらゆるものを受け入れる余地があります。家庭排水、工業排水、様々な汚物を河は運んで、海に注ぎます。海はそれを決して拒絶しません。逃げません、現実を受けとめます。

  だが、その荒々しい言葉や復讐心が神に是認されたわけではありません。祈りが本物であるために、神に対して何事であっても表現し、訴え、打ち明けることが必要です。正直に吐露することは不可欠です。

  神様の耳は、暴力的な話も、殺戮の訴えさえ、聞くことを躊躇されないのです。それほど大きな愛を持たれます。

  ただ、神はそのすべてをお聞きあげ下さるわけではありません。いやむしろ、キリストを遣わすことによって、人間の吐く激しい呪いを、赦しに創り変えようとされました。仇討ち、仕返し、報復に継ぐ報復、悪の連鎖を十字架と復活によって断ち切られます。

  しかし、聖霊が人々に降るまでは、そのことは起りません。新約聖書になって律法でなく、優しさが登場します。それが全ての人に届くまで、神は忍耐して、人の諸々の訴え、告訴、嘆き、報復的な祈りさえ、今も忍耐してお聞き下さっているのです。神様の忍耐深い耳は驚くべきものです。

  そのような慈しみ深い愛の神に出会ったから、この信仰者は砂漠の中の豊かさを持つことが出来たのです。そして、これは皆さんにも起ることです。

          (完)

                                 2009年5月10日

 
                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーに遠足に来た親子連れ。)