砂漠の中の豊かさ (上)


  
  
  
                                                
                                              詩編63篇1-12節


                                 (1)
  63篇の添え書きに、「ダビデがユダの荒れ野にいたとき」とあります。ユダの荒れ野はエルサレムの南方に広がる不毛の地です。今、ダビデは命を狙う敵の手から逃れて、この荒涼とした不毛の荒れ野にいたのです。そして、カラカラに乾き切った砂漠にあって、この歌を歌ったのです。

  「神よ、あなたは私の神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは乾き切った大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。」

  命を狙う者に追われてその前途に光が見えません。彼の人生自身が荒涼としています。しかし、自然の荒れ野も物理的に危険で恐ろしく不毛そのものです。こうした環境の中で、彼は、乾き切った大地のように衰え、水のない地のように渇き果てて、絶対的な神を渇き求めたのです。

  今の経済的な不況の中で、荒涼とした人生を歩み始めている人たちも多くいると思います。

  全ての人は、絶対者をあこがれ、求めています。他のものによっては、決して完全に満たされることがない、絶対的に信頼できる方に出会いたいのです。全ての人は、そのお方に造られたという密かな思いがあるからです。

  しかし、求めても直ぐに得られないために、手近なもので代用して、代用ですから、欲求不満を起こし、心の中に空虚な空洞を持って生きているのが、私たちです。

  現代社会に依存症というのが増えているのは、その現われでしょう。覚せい剤アルコール依存症だけでなく、薬品の依存症、ギャンブル依存症買い物依存症、セックス依存、暴力依存、インターネット依存。色んな依存症が広がっています。

  これらは、この心のすき間を切実に埋めたいからです。

                                 (2)
  さて、「私はあなたを捜し求め、私の魂はあなたを渇き求めます」と語っています。ヘブライ語で「魂」は、ネフェシュといいますが、これは喉を指す言葉です。魂がなぜ喉と関係するのか、不思議です。私たちの魂が活き活きと生きるために、神の息、まことの命を求めて、大きく口を開け、喉を開け、渇き、求めるからでしょうか。

  イスラエルの人たちは砂漠で40年間放浪して、痛々しいほどの渇きを経験しました。彼らと、今ここに魂の渇きを覚えている人が、同じ言葉を使って神を求めているのは、これも非常に不思議なことです。大変逆説的ですが、神は、神の不在を経験して切に神を求め、神を欠いて心の空洞を経験するなかで、切に求められることを望まれるのです。反対からいえば、そのような神への真の渇き求めの中で、神は必ず私たちに出会って下さるのです。7節は、「必ず私を助けて下さる」と語っています。

  渇き求めは、一見不平や不満のように聞こえます。しかし幸いなことに、神への渇きは違った結果を持つことになります。それが、3節の、「今、私は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄を見ています」という言葉です。

  ダビデはユダの荒れ野にいながら、「聖所で」と語るのです。どうしてでしょう。彼は今、神の家である聖所で静かに座り、祈ることが出来た過ぎ去った日々を懐かしく回顧しているのでしょうか。それとも、砂漠自身が、神が存在される場所であるということでしょうか。そういう信仰的な幻、霊的な新しい幻が与えられたのでしょうか。

  もしそうなら、殺伐とした砂漠でさえも神の存在される場所になるなら、現在の経済危機、人間関係の不信や危機、心の危機が、神との出会いの場にもなるということではないでしょうか。そこにも絶対者がおられるということではないでしょうか。ダビデは、実際そういう発見をしたのです

  先週ある方からお便りを頂きました。この方のご親戚の娘さんの結婚式の司式を10年ほど前にしたことがありました。それで、結婚式前に打ち合わせを兼ねてご実家を訪ねました。帰りに車を運転していて空を見上げると、電線が見えて、電線を2匹の猿が伝っているのが見えました。思わず車を止めて見ますと、一匹は足が片方ありません。交通事故でやられたんですね。で、その娘さんのご主人が、クローン病であられると書いてこられました。「信徒の友」のグラビアで、今日も礼拝に出ておられるHさんのことをご覧になって書いてこられたのです。結婚式をさせて頂いた時は、そういうことはありませんでした。その後40代になって発病されたのでしょう。しかしそれだけでなく、生まれた2番目のお子さんが自閉症でいらっしゃるそうです。それでとても悲しんで心がふさいでおられるとのことです。

  大変な十字架だと思います。まさに乾き切った大地のように衰え、水のない地のように渇き果てておられるのでないかと心配します。福井の原発銀座の小さな町に住んでいる、その若いご家庭のことを案じざるを得ません。

  しかしまた、この詩編が語るように、そういう危機を持っておられるからこそ、絶対者との出会いの場が与えられるかも知れません。いや、渇き求めるなら必ず与えられるとこの詩編は語ります。そしてそれは、「命にもまさる恵みとなる」と語ります。

          (つづく)

                                2009年5月10日

 
                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの民家。)