謙ったキリスト (下)


 
   
                                              
                                              フィリピ2章1-11節
  
 
  
                                 (2)
  さて彼は、この信徒の交わりと教会一致の唯一の根拠を6節以下で書きました。これは当時流布していた讃美歌、フィリピ教会でも恐らくよく歌われていた讃美歌です。そのような誰でも知る歌を引用することは、この歌を歌うときには誰しも教会一致が不可欠なことであることを思い出し、心を留めるに違いないからです。

  それは教会一致の唯一の根拠であると共に、「何故へりくだりが決定的なことなのか」の根拠を示すものです。

  パウロはこう言います。「へりくだって…互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」

  そして讃美歌を引用して、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました…」と書きました。

  ここでキリストは、「神の身分」であったと言われています。口語訳聖書は「キリストは神の形であられた」となっていました。身分とは、ギリシャ語では、その本質が外からも明瞭に分かる姿で自分を表すという意味のようです。神のみ子であるキリストは、父なる神と共に、神としての霊的な・神的な性質と神としての栄光と権威を持っていました。つまりキリストは真に神ご自身であったと、歌うのです。

  ところが次に、「神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ…」と歌います。

  神が「人間の姿」になられるということは、どういうことでしょう。それは必然的に、神が、神としての栄光、神の身分、その尊厳を捨てることです。

  「神と等しい者であることを固執しようとは思わず」とあるのは、この身分をやめるということです。「イエスの中に受肉された子なる神は、人間によってもはや神であることが認識されない姿となられた」のです。神が、神の身分を捨て、人間と同じになられ、しかも僕の身分になられたのです。

  その高い身分、地位、権威に執着するのでなく放棄されたのです。この世には自分から進んで名誉や地位を捨てる人は中々いません。何かヘマがあれば別ですが、一代で築き上げた会社ならなお更、社長の椅子を渡しません。

  だがキリストは放棄された。そのために彼は、本質において神ですが、その本質が人間によって認識されることがなくなったのです。人はナザレのイエスに、卑しい僕の姿を見るだけです。目に見える姿は飼い葉桶と十字架です。磔になって絶叫している姿です。神の輝く栄光も尊厳もどこにも見えません。ですから、祭司長も長老もイエスの中に神を断じて認めることができませんでしたし、イスカリオテのユダだけでなく、十字架に架かったイエスの姿に弟子たちは皆、愕然とし絶望してしまったのです

  「自分を無にして…」とあります。無ということで、色々の論争がありました。神の属性を持つことを意志的に断念したとか、断念でなく「隠蔽した」とか色々な議論です。しかしここで明らかなのは、自分を無にするとは、神の身分を外に現わさず、謙虚に、「へりくだって」いかれたということです。そのためにイエスは激しく罵られ、苦しめられました。しかし、「罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(Ⅰペトロ2)。

  すると、自分を無にしたキリストは、彼の中の「神は消えて、なくなったのかという疑問」が起ります。しかし、神の属性を放棄されましたが、属性を放棄する「主体としての自己」はなくなるわけではありません。

  妻は今でもE幼稚園の園長を辞めなければよかったと言います。私の目からはそろそろお引取り頂く方がいい時期で、いい時期に引退したと思います。昨年100周年を迎えたその幼稚園は彼女の生き甲斐だったのでしょう。私たちが赴任した時の主任の先生は大変秀でた方でした。毎朝職員会があって、この方は、例えば、「Aさん、今日のあなたの保育内容は何ですか」と聞くんです。先生たちはドキッとして誰も気が抜けませんでした。また、「Bさん、今日は園外保育ですね。では、お出かけの時の注意点は何ですか」と聞きます。それから、「皆さんは、いつ、どこにいてもE幼稚園の先生です。お仕事が終って町を歩いている時も、E幼稚園の先生ですからね。E幼稚園の先生らしい態度でいてください。服装は幼稚園の中にいる時とは違うかも知れません。身なりという外見や属性は放棄したり変わったりするかも知れません。でもE幼稚園の先生という『主体としての自己』はなくならない。」そこまでは言いませんが、意味はそうです。

  キルケゴールは、「愛ゆえに死ぬということは人間にできない。しかし神はそれをされた。ここに神の人間に対する絶対的優越性がある」と言っています。すなわち、ご自分を捨てることの中に神がおられ、捨てることによって、神は、神の真の栄光と超越性を逆説的にお示しになったのです。カール・バルトは、捨てられたのは、人間によって神として認識される認識可能性だといいます。ですから、キリストは、聖書を通さなければ、信仰を通さなければ、歴史的研究をいかにしても神であることを絶対に認識できないのです。

  次に、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と歌います。神の自己放棄は、人間の姿を取るということだけでなく、「十字架上の死」に至るまで貫徹されました。「キリストはその死を、運命として受け止めたのではありません。キリストの死には強い意志が働いています。彼は十字架の死に至るまで、自己放棄の道を歩まれました。イエスは、ゲッセマネにおいて「私の願いではなく、御心のままに行なってください」と切に祈られました。ここには父なる神の意志との一致もあります。

  キリストが放棄されたのは、神の身分です。その栄光と尊厳と権威の、目に見える可見性です。それを余す所なく放棄されました。それはただ、父なる神への愛と人間を極みまで愛する愛のためでした。この「自分を無にして」という行為の中に、私たちは最も偉大な神の栄光を見、人間をはるかに越えた神の王的な権威に触れることができるのです。

  イエス・キリストにおいて人間にご自身を現わされた神は、自分を超えて神になろうとする人間の傲慢、そのために犯すさまざまな罪を贖(あがな)うために、僕の姿を取り、人間の中に入って行動されたのです。その愛の頂点こそ、「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」、「わが神、わが神、何ゆえに私をお見捨てになったのですか」という叫びです。このような極みまでご自分を落として行かれた理由は、滅び行く人間への限りない慈しみであり、愛、憐れみ、そして人間を救い、共にあろうとされる愛の意志でした。以上について更に知りたい方は、戸田伊助著「うめき」を参照ください。信仰を深められる示唆的なことが多々書かれています。私も参考にさせて頂きました。

                                 (4)
  このような神の、人間を救おうとして、ご自分を無にし、極限までへりくだられたお方によって救われた人間は、その深い愛に与った人間は、もはや利己的であることはできません。どうしてへりくだらずに、人に仕えず、傲慢にしておれるでしょうか。神の恵みに与った人間にとっては、自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払うこと、それは嬉しいことでなくて何でしょう。注意を払うといっても、むろん干渉するということではありません。へりくだる道、仕える道、その他にキリストに従う喜ばしい道があるでしょうか。

  神は私たちのために何をなさったのか。キリストは何をなさったのか。そのへりくだり、自己をお捨てになられたこと、その中心的なことを知るときに、私たちは「深い所で利己主義から解放され、無私の心で生きる」(ブラザー・ロジェ)ことへと向かうのです。一時的な感情でなく、終りまで誠実であり、堅実な心で、へりくだられたキリストに従おうとするのではないでしょうか。

                (完)

                            2009年5月3日
  
  
                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの裏町から見あげるマドレーヌ教会。)