謙ったキリスト (上)


  
  
 
                                              フィリピ2章1-11節
  
                                 (1)
  久し振りにフィリピの信徒への手紙に戻ってきました。これまでも触れましたが、パウロはこの手紙を獄中から送っています。しかも、「私の血が注がれる」ことがあるかも知れない、殉教の死が突然起るかも知れないという差し迫った中で、遺言のようにフィリピの人々、また今日の私たちに宛てて書いています。

  パウロの関心は、フィリピにキリストの教会がしっかりと建てられること。邪まな曲がった時代のただ中で、非の打ち所のない神の子たちとして、暗い社会の中にあって「星のように輝き」、キリストの「命の言葉をしっかり保って」生きる教会が建てられるようにということでした。

  それは今日も同じかも知れません。子ども達や近親者への殺人、またその他の残酷なことが繰返されています。また、一銭でも得をしようと法の目をかいくぐって不正がなされます。貪欲、競争。それを責めるマスコミが、同時にそれを煽る書き方をしています。マスコミも少しでも金にならないかと考えているのでしょう。なんと邪まで曲がった暗い時代です。

  そういう当時の時代の中で、今日の1、2節は、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてほしい」と書いています。

  フィリピの人たちは、パウロから特別に愛され、祈られ、誇りとされて来ました。そのパウロから、「私の喜びを満たしてほしい」と言われたのですから、彼らはパウロの願いにぜひ応えたいと思ったでしょう。しかし、「私の喜びを満たしてほしい」という言葉で彼が言おうとしたのは、単に彼の私的な満足を願ってのことではありません。ここで願うのはパウロの喜びですが、何よりもキリストが喜ばれることであるからです。パウロは、私が喜びとし、そのために生きているキリストの喜びを満たしてほしいと、そういうレベルでフィリピの人たちに願ったのです。

  彼は1章1節で、「キリスト・イエスの僕であるパウロ」と挨拶を送っていました。僕は主人の喜びをわが喜びとするように、彼はキリストの喜びをわが喜びとしていましたから、そこからも、キリストの喜びを満たしてほしいという願いだと言っていいでしょう。

  パウロは、今日の箇所を、フィリピ教会の会員の一致を促すために書いています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてほしい。」言葉を変え、しつこいほど繰返し、信仰において共に一致して生きることを勧めます。それが今日の主題です。

  では、この一致が成立する源泉はどこにあるのかです。その源泉が今日の題の「へりくだったキリスト」です。

                                 (2)
  ただその根拠を示す前に、彼は、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」と語っています。

  フィリピ教会の中に、利己的な、言うことは言うが、何かの理由をつけて自分は殆ど何もしない、そういう自分勝手な振る舞いをする人がいたのかも知れません。パウロはこの教会を建てました。当初からそういう人が居たのか、今のフィリピ教会にそういう人がいて手紙で伝え聞いていたのか分かりませんが、具体的な何かがないとここまで身を入れて書かないでしょう。勝手な振る舞い、そこには、「へりくだり」がないのです。心に驕りがあるのです。或いは、パウロはそんな人によって悩まされることがあったのかも知れません。確かに教会には赦しがありますから、その赦しをいいことに、自分を赦して得だけをする人がいたのかも知れません。

  たとえどんなに素晴らしい言葉を語り、豊かな知識を持っていても、愛がなければ無に等しいのです。また仕えることがなければ、裏方の仕事をして仕えるのでなければ、これも無益です。信仰は言葉でなく、愛による生活だからです。

  だが、パウロはそういう人たちを冷たく排除しようと言うのでなく、これまではどうであれ、そういう人も、「へりくだり」を信仰生活の中心的なこととして学ぶことで、今後は他の人のことを考えるようになってくれることを望んでいるのです。

  先ほど、3歳半のAちゃんが礼拝堂から牧師館に通じる引き戸を開けて何かを取りに行きました。そして何かを取ってきたのですが、その時は引き戸を閉めませんでした。それで開けたままかと思っていましたら、またやって来て牧師館から何かを取って、今度は静かに引き戸を閉めました。これまで開けたら開けたままだったんです。しかし今日初めて閉めました。これまではどうであれ、今後が大事なんです。

  パウロは、これまでを責めません、今後キリストにあってどう生きるかを問題にします。

  それで、「互いに」とか「めいめい」とかと何度も語り、「へりくだって」、「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と説くのです。その説き方に、彼の穏やかさ、心の大きさ、寛容さが見受けられます。彼は決して性急に人を裁こうとしていません。

         (つづく)

                            2009年5月3日
  
  
                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;田舎町ヴェズレーの路地裏を抜けて。)