私は燃えさしだった (下)


  
  
                                              
                                              ザカリア3章1-10節
 
  
                                 (3)
  次のゼカリヤ書4章6節に、「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」という言葉が出てきます。主の家であるエルサレムの新しい神殿は、武力や権力によって建てられるのではない、主の霊によってだけ建てられるということです。

  教会もそうでしょう。乱暴な言葉や権力的な手段によってではなく、ただ霊によって、愛によってのみ堅く立てられます。

  イエス様の魅力は、その在りようが実に謙虚だということです。主は決して横柄な態度を取られません。乱暴な荒々しい言葉を語られません。人の尊厳を傷つけず、どんな絶対主義的な態度も取られません。ですから、私たちも謙虚であるべきです。その時、私たちの信仰は美しく澄んで来ます。教会の美しさは建物や調度品の美しさではありません。信仰の美しさであり、その明るさであり、他者に仕える信仰の精神です。そのような美しさが本物である時、人々は顔を輝かし、教会に向かって小走りに走って来るでしょう。たとえ、火の中から取り出された燃えさしのような者であっても、神はその人を貴く用いていかれるでしょう。

  息子はA教会に赴任しましたが、もう一つの小さな伝道所も兼牧するそうです。それは漁師町にある伝道所で、牧師がいませんから、あるご夫婦が教会に住んで守っているそうです。何才の人だと思います? 

  百歳になる人と90何才かのご夫婦です。

  漁師町ですから人々の気性は荒く、青年時代から信仰に生きて来た彼らは、色々町の人たちから意地悪され、迫害され、差別されて苦しいことがあったようです。戦前は特にそうだったでしょう。しかし今、長い長い信仰の人生をお二人は全うしようとしていられるのです。

  私はその話を聞いて、そこに何ものか本物の信仰があると感じました。百歳と90何才かの会堂守り。「あなたたちに触れる者は、私の目の瞳に触れるものだ。」瞳は何かが来れば瞬間的に目をつぶります。反射的に瞳を守ります。神は、この方々を反射的とも言えるほどに世の諸々の権力から愛し守って来られたような気がしました。

  そして、私たちも、神は同じように、神の瞳のように守ってくださるのです。この神に信頼し、委ねていきましょう。

           (完)


                                   2009年4月26日

                                       板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの町の裏通り。)